山城 二条城

二条城・二の丸御殿

二条城:二の丸御殿 2001年8月11日

名称

二条城

城の種類

平山城


 このお城の歴史舞台はなんといっても江戸時代の初期・後期(幕末)と言えるでしょう。 朝廷からの将軍宣下などの時は家康から家光まではこの二条城を宿舎として京都で行われましたが、その後二条城は殆ど使用される事もなく15代将軍慶喜までは、江戸城にて京都から勅旨を迎えて執り行われていました。 二条城が使用されるようになるのは幕末時、家茂が公武合体を強固とするとき、二百数十年ぶりに二条城に将軍がやって来たことになります。

 当ホームページ内にある千葉県の松戸市戸定歴史館内にあった『古写真に探る 幕末徳川の城』に二条城の幕末における古写真が掲載されています。  この城に来た理由はこの資料にある古写真と現在残っている史跡とがどの様に変わっているか?と興味が湧きやって来ました。  二の丸御殿は幕末時とほとんどかわらないに様に感じられました。 ただ一つ気になったことは上に写真にもあるそこそこに散りばめられた菊の紋章です。 幕末後ここは朝廷の所有となりますが、その際に徳川の紋章と総て取り替えたのでしょうか? そうだとするとその取り替えた数は膨大なものとなりますが、どうでしょう。。。 

 二の丸内にある庭園です。 
 あの有名な小堀遠州の作です。
小堀遠州は江戸時代・初期の人でこの庭園のほかにも駿府城・禁裏・ 仙洞御所・江戸城西の丸など数多くの有名な庭園を手掛けました。 備中国奉行として当ホームページ内でも紹介している岡山県内の備中松山城にいた経歴もあります。
 また、この庭園には御水尾天皇の行幸のときに能舞台が作られたそうです。

 天守台から見た西橋です(クリックすると拡大写真が表示されます)。 古写真にも同じアングルからの写真があり、幕末当時には将軍に伴って夥しい数の侍が入るため、そのための番小屋などの準備がなされておりました。 現在はその当時の面影を見ることは出来ません。

 二条城の本丸にある天守台です。
本丸の形だけ見ると篠山城に似ている思いました。(篠山城が二条城を手本にしたかもしれませんが)しかし,天守台の規模は篠山城が大きいようです。
 作者がここ二条城に天守台があったと気づいたのはつい最近のことです。 中学生のころに修学旅行で来た時は二の丸御殿にしか見学しなかったのではないかと,今になって思います。(本丸に行ったのかも知れませんが,覚えていないのが正直なところです(~_~) )

 東南隅櫓を城内から写した写真です。
 どことなく江戸城の富士見櫓にも似ているように感じられます。 

 二条城の印象としたは,京都の町の中でこの二条城という存在はちょっと不釣合いな感想をもちました。 朝廷があるこの京都でこれだけの城を持つということは,相当のインパクトがあったのだと思いますが,当時の京都の町でもちょっとなじめなかったのでは…。
 幕末時は家茂・慶喜とこの二条城に将軍がいたことになりますが,幕末動乱時にこの二条城に居られたのは,狂気の沙汰ではないように感じます。 攘夷派が束になってかかれば,この二条城は落ちてしまうのでないでしょうか? まぁ,それ相当の幕臣たちが江戸から来てこの城を守っていたとは思いますが…。


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