養源院

養源院 2002年6月8日


 上の写真は三十三間堂近くにある養源院です。
養源院と云う寺号は浅野長政の法号、養源院からとったものだそうです。
 「豊臣秀吉の側室、淀殿が文禄三年(1594)に父長政のために建立した」と建て看板には記載があります。
 この養源院と言えば、「血天井」でしょう。。。
 建立後の養源院はほどなく火災で焼失し、元和七年(1621)に徳川秀忠の正室、崇源院が伏見城の遺構から養源院の本堂を再建されました。
 本堂・廊下の天井には伏見城落城の際、鳥居元忠率いる将士が自刃した板の間が使用されています。 養源院に入ると、ガイドの方に色々説明を受けることが出来ます。
 が。。。 血天井に関する説明は、実に生々しいものです。

 各地に伏見城の遺構が点在していますが、此処ほど如実にその状態を表しているものは無いでしょう。

 左の写真は三十三間堂にある、太閤塀です。 何も考えず京都から東へ歩きつづけたら、此処に行き当たりました。
 今度はこの付近の北に位置する、霊山歴史館・坂本竜馬の墓などにも行ってみたいと思っております。 何時頃行けることかぁ。。。


左下の写真が豊国神社(国宝)の唐門です。 この門は二条城・南禅寺の金地院を経て此処に移築されたものだそうです。
 この両脇には豊臣恩顧の大名の灯篭が並んでいます。
 秀吉死後、豊国大明神の神号を後陽成天皇から賜り、阿弥陀ヶ峰の中腹に葬れれ廊社が造営されましたが、豊臣家滅亡後、徳川幕府によって取り壊されてしまいました。現在では再建され阿弥陀ヶ峰に豊国廊があります。


 豊国神社の近くには方広寺もあり、大阪冬の陣で有名な大鐘があります。 あの「国家安康君臣豊楽」の銘が刻まれていました。
 近くにいたガイドさんが「呪われる」などと説明していたので、ビビッて写真は写しませんでした。(小心者!)

 江戸時代には阿弥陀ヶ峰の麓の新日吉神社に秀吉の御霊は移され、作者も行ってきましたが、近くは女子高、女子短大、女子大に囲まれ、その先にある再建された豊国廊に居る秀吉は、さぞ満足だろうと思ったのは作者だけでしょうか…。