羽前 清水城

清水城・二の丸

清水城 2009年7月17日

名 称

清水城

種 類 平山城
住 所 最上郡大蔵村清水字比良

 山形県お城めぐりシリーズ第6弾・最上 清水城です。

 上の写真が清水城を二の丸側から本丸方面を見た様子で、林の向こう側が本丸になります。
マウスを合わせると本丸側から見た二の丸の様子が確認できます。

 国道458号線で大蔵村役場から最上川を渡ってから右に曲がると、清水城址の看板が左側に現れます。 そこから鬱蒼とした林を登ると、清水城址の内堀の脇から二の丸に出てきます。


 左の写真が二の丸・大手門左側の外堀で、マウスを合わせると右側の外堀が表示されます。 

 一番上の写真である土塁&空堀→二の丸→内堀→明瞭ではない土塁(曲輪)?→空掘→本丸の順番に縄張りが南から続いております。
 内堀から本丸に向かうには、現在の遺構を辿ると、一旦本丸に向かって左側に下降して(左下の写真)、V字型に折り返して本丸に向かって登る(左下の写真にマウスを合わせると)ことになります。 当時はこの空掘に木橋が架けられていたことでしょう。
 この空掘の比高は5~6㍍、相当に深いです。

 この日のお城めぐりは、八向楯新庄城猿羽根楯→清水城という行程で登城してきました。地図上で見ると、この四城は数キロメートル内のやや歪な四角形内にあり、それぞれ最上勢・庄内勢・仙北勢が、この付近を戦場としました。

【清水城周辺・戦国期の情勢】
 清水氏五代目の清水義高の時代、清水城の北、約3kmにある八向楯で永禄八年(1565)に本合海の戦いがあり、大宝寺義増(又は武藤義増・大宝寺城主(鶴ヶ岡城))の軍勢に義高が討たれてしまいます。清水城と目と鼻の先である八向楯は、七代目の義親によって攻め落とされるまで、反旗を翻していました。

 また、清水城の東南、やはり約3kmにある猿羽根楯主・猿羽根義舜は、天正十七年(1589)に最上義光に従属せず攻められ切腹していることから、六代・義氏までは至近距離に猿羽根家は存在していたことになります。 この頃まで清水家の家臣とていたのか?清水城築城以前よりこの付近を縄張りにしていることから、清水家と敵対していたのか?
 地形上、清水城とこれらの城郭の間には水量の多い、流れが速い最上川が存在していることから、対岸の領地を経営するには難しかったことが推し量れ、清水城から3kmしか離れていない規模の小さい両楯が敵対・台頭し得たのでしょう。【作者の史観】

 案内板の説明では新庄盆地一帯の経営を行っているような記述になっていますが、ここまでの内容から関が原の戦い後もしくは7代・義親からの代になってからの状況を指していると思われます。

 最上氏が終焉となる兆しが、この清水城に起こります。 慶長十九年(1614)、最上家の覇王・義光が亡くなり、大阪冬の陣の直前の十月十三日。 以前から対立していた義光の次男、最上家当主・義親の命を受けた延沢遠江守・日野将監らに突然清水城を攻められ、この城で義親が自刃してしまいます。
 真意は諸説ありますが、「幕府の信任を得るため、以前、豊臣秀頼の近習として仕えていた義親を謀反の恐れありと殲滅した」というのが大勢です。
 その後の清水城は、日野将監が治めていましたが、最上氏の改易によって、この清水城は廃城となります。

 上の写真が空掘を登りきったところから写した、本丸跡です。
 上の写真にマウスを合わせると本丸から見る最上川下流、八向楯方面の情景です。
 この清水城の役目でもある最上川の監視にピッタリの場所であることが判ります。
 見づらいですが、右側に大蔵村役場のあるある町並みがあります。
 この大蔵村の村名の由来は、義親の官位であった「大蔵大輔」からきています。