羽前 新庄城

新庄城・本丸

新庄城 2009年7月17日

名 称

新庄城

種 類 平城
住 所 新庄市堀端町

 山形県お城めぐりシリーズ第4弾・羽前 新庄城です。

 上の写真が大手門跡から見る戸澤神社の本殿です。

 この本殿の向こう側にある花畑には新庄市の市花であるがあじさいが満開になっていました。
 この日はどんよりとした梅雨空でしたが、あじさいは綺麗に咲き誇っていました。

 最上藩が改易した元和八年(1622)、この新庄盆地に戸沢氏が六万七千石で入封します。当初は真室川流域の鮭延城に入城しましたが、手狭なため寛永元年(1624)に新庄城を築城、翌年に完成させます。 城内に天守閣がありましたが、築城四年目に火災にあい焼失してしまいます。

 その後、新庄城は幕末まで戸沢氏が治め、第十一代 戸沢正実のとき、戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参画していましたが、久保田藩(秋田県)が新政府軍に鞍替えしたのに同調して、新庄藩も新政府軍となり、旧幕府軍に対抗しました。 しかし、勢いが勝る旧幕府軍の庄内藩に攻め込まれて、新庄藩兵は逃走して新庄城は落城、焼き払われてしまいました。


 この新庄城の遺構の中で、作者が気に入った場所が左の写真の武器庫櫓跡です。
 新庄城には南・東・北側の隅にそれぞれ、武器櫓、納戸櫓、大納戸櫓がありましたが、この武器櫓付近の土塁が一番当時の状況を残していると思います。
 この写真の右側には、1mぐらいの窪地があります。 ここから作者の勝手な空想です。「前述した戊辰戦争時、新庄城が焼き払われたことから、落城時にこの武器庫櫓にあった弾薬が暴発!?いや計画的に旧幕府軍が落城した後の入城時に、武器庫櫓にあった弾薬を爆発させた!?」なんて、窪地をみながら思いを馳せておりました。

 左の写真が本丸大手門の石垣の左側(マウスを合わせると右側)になります。
 参考文献として「日本城郭大系 第3巻 山形・宮城・福島 新人物往来社(昭和56年 初版)」を参照すると、新庄城の本丸表門の石垣に関しての記述があり、「左側(南側)に十数年前まで残っていた石垣の模造物があるだけで往時をしのぶことができる築城構造は全然残っていない。」と、ありました。
 こんな石垣の模造物を態々作るのか?と、疑問に思って新庄教育員会問い合わせたところ、「本物です」との回答を頂きました。
 ただ「近年コンクリートなどで石垣を固めており、若干手が加えられたため模造品のように見えるのではないかと思われます。」ということです。
 作者には火災によって、石垣が黒ずんでしまった様にも見えます。