羽前 八向館
八向館 2009年7月17日
名 称
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八向館
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種 類 |
山城 |
住 所 |
新庄市本合海 |
山形県お城めぐりシリーズ第3弾・最上 八向楯です。
この楯は清水城址に行く途中に最上川の「本合海」という景勝地をよってみたところ、案内板に「八向楯」の名称を見付けて、写真を撮ってきました。
案内板の説明を参照すると、写真に写っている部分は本丸の南側に当たる部分で、写っているところから約200㍍先にある八向山の山頂を中心に八向楯の城郭が形成されているそうです。
八向楯の歴史を紐解くと、平安時代前期の貞観十六年(874)に朝廷から従五位を授けられた式内社(『延喜神名式』にある官社3132座の中の一社)「矢向神」として建立されました。
後に歴史的に有名な人物がこの矢向楯を含む本合海近辺に現れます。
まず同時代末の文治三年(1187)に義経一行が頼朝から追われ、船で最上川をさかのぼって本合海に上陸、奥州平泉に向かう途中にこの矢向神を伏し拝んだと「義経記」に記されているそうです。
戦国期に入り、「合海志摩守」がこの一帯を領して八向楯を守っていましたが、清水城主・清水義親によって攻められ落城となります。
時は重ねて江戸時代を迎え、「おくの細道」の松尾芭蕉が江戸から最上に入り、猿羽根峠を経て新庄から羽黒山へ向かうため、この本合海から船上の人となり「五月雨を集めて早し最上川」と詠っています。
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