松前城[百名城:03]
【日本百名城:03】
【別名:福山城】
【構造:平山城】
【天守構造:独立式層塔型3重3階】
(1855年(安政元年)築 非現存)
(1960年RC造外観復元)
【築城:松前崇広/築城年 1611年】
【遺構:本丸御門、御殿玄関、門、石垣、土塁、堀】
【指定史跡:国の重要文化財(本丸御門)
北海道有形文化財(御殿玄関)】
【地図:北海道・道南】
<登城:平成12年11月13日/令和元年12月2・3日>
前回登城してから19年の歳月が経ったことに、このページを編集しながら思い浸っています。
19年前の松前城の詳細はコチラをご参照ください。
松前城の遺構
前回登城時の反省点を見学
19年前に登城した際、反省していた点は以下3点です。
【1.阿吽寺の山門・堀上門】
現存する堀上門である阿吽寺の山門を見逃したこと。
【2.松前町役場裏の登城口】
工事中であった松前町役場裏の登城口を訪問出来なかったこと。
【3.被弾した天守台の石垣】
箱館戦争時、旧幕府軍・蟠竜丸に被弾した石垣を特定出来なかったこと。
(この石垣は天守台の石垣にあたります。)
今回、上記反省点をすべて制覇出来ました。半世紀にわたり全国の城郭を登城して参りましたが
反省点を払拭すべく再登城したのは初めてだったのではないでしょうか。
大東亜戦争後も存在していた13番目の天守
大東亜戦争前、現存していた天守は20城におよびましたが、アメリカ軍の空襲によって7城が焼失してしまいます。
と、すると現存天守は13城。あれ?現在の12城から1城合わなくない? それが、この松前城の天守になります。
幕末、全国最後に建造された日本式城郭の天守は戦後まで残っていましたが、昭和24年に火災にあい焼失してしまいます。
史料館に白黒写真ではありますが、炎上中の天守が紅蓮の炎に包まれる様が、強烈に目に焼き付きました。
幕末の松前藩は、明治維新の潮流に翻弄され続けました。
陸奥国伊達郡梁川への転封、松前への返り咲き、松前城の築城、藩主・崇広が老中への抜擢、そして箱館戦争へ...
箱館戦争までの道のり
松前道広 明和2年(1765)-寛政4年(1792) [享年:78]
松前章広 寛政4年(1792)-天保4年(1833) [享年:58]
文化4年(1807)に陸奥梁川藩へ移封となるも文政4年(1821年)に復し、蝦夷地一円を再支配
松前良広 天保5年(1834)-天保10年(1839)[享年:16]
前藩主の章広は祖父。父の見広は早世
松前昌広 天保10年(1839)-嘉永2年(1849)[享年:29]
前藩主の良広は実兄
嘉永2年(1849)に幕府の命令で福山城の築城に着手し、北方警備の役割を再び担う
松前崇広(たかひろ) 嘉永2年(1849)-慶応元年(1865)[享年:38]
9代藩主章広の六男
安政元年(1854)10月に福山城完成
安政2年(1855)2月22日、幕府は再び蝦夷地の直轄化を目論み、乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げる
安政2年(1855)、日本国内初の西洋式星型要塞・戸切地陣屋を構築
元治元年(1864)11月10日老中に抜擢、同年11月19日には天領となっていた松前西在の乙部より熊石までの8ヵ村の還付された
慶応元年(1865)10月1日に兵庫開港要求事件に連座し、官位剝奪。阿部正外と共に老中を解任されてしまう。
慶応二年(1866)1月に松前に帰還、4月25日失意のもと、熱病により死去。享年38。
松前徳広(のりひろ) 慶応2年(1866)-明治元年(1868)[享年:25]
慶応4年(1868)7月、尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起。