天空の城砦

蝦夷 上之国勝山館

上之国勝山館(かみのくにかつやまだて)

勝山館ガイダンス施設

【続日本百名城:102】
【構造:山城】
【築城:文明五年(1473) 廃城:不明】
【主な城主:蠣崎信広、蠣崎光広】
【遺構:曲輪】【国指定史跡】
【地図:渡島半島】
≪登城日:令和元年12月2日≫

 この日、勝山館内にあるガイダンス施設は冬季閉鎖期間であることは登城前に確認済みだったのですが、ご覧のとおり積雪はなかったので史跡内には入る予定でした。  しかし、風雨がとても強く、しばらく待ちましたが天候が治まる気配がまったくなかったので、敢え無く掲載した写真を収めただけで次の目的地に向かいました…。 残念。

勝山館の遺構

 ここ勝山館は松前城の藩祖、武田信広(蠣崎信広)が築城したとされる館です。

【藩祖:武田信広】
 安東水軍で名を馳せた安東氏4代目・政季が、享徳3年(1454)に南部氏との戦いに敗れると、津軽海峡を越え娘婿である上国守護(花沢館[勝山館から東へ約1㎞])を治めていた蠣崎季繁に身を寄せることになります。  その際、帯同した武将が松前藩の藩祖である武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)であるとされています。 その後、花沢館の蠣崎季繁に気に入られ娘婿となると蠣崎氏(のちの松前氏)を名乗ります。

【コシャマインの戦い】
 康正3年/長禄元年(1457)にアイヌによる一斉蜂起・コシャマインの戦いが始まると、蝦夷地にあった道南十二館のうち花沢館と茂別館を除く10館 (戦いの発端となった志苔館など)が陥落してしまいます。 しかし、花沢館の季繁の下にいた蠣崎信広が残存兵をまとめあげて反撃に出るとコシャマインの軍は敗退し、七重浜(北斗市)でコシャマイン父子を打ち取る戦果を挙げます。  この功績によって信広の渡島半島の南部の地位は決定的になり、寛正3年(1462)に勝山館を築城することになります。

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