一宮城 [続百名城:176]
三好氏と長宗我部氏の攻防の舞台となった一宮城…

この写真は一宮城本丸にある石垣を帯曲輪方面から写したものです。
途中で撮影しながらでしたが、本丸まで息も絶え絶え45分かけて出逢うこの石垣をみて報われた想いでした。
【以下、CharGPT より抜粋】
一宮城の築城時期は明確ではありませんが、南北朝時代から室町時代にかけて築かれたと考えられています。
戦国時代には阿波国の守護である細川氏や三好氏の勢力下にありました。
16世紀後半には、阿波国の有力な武将・三好氏の家臣である一宮成相(成祐)(しげすけ:?~1582)[一宮家:第12代]が城主となり、城を大きく整備しました。
一宮氏は阿波国の一宮(地主神を祀る神社)の神官の家系でもあり、地域の支配者としての地位を確立していました。
(簡単な概略として表現できていると判断)
一宮城の遺構1<戦乱の一宮城>
一宮成相が城主となると阿波国内は騒乱の渦中に包まれます。
阿波国を取り仕切ってる三好実休(じっきゅう)の代に成相は三好長慶や実休の妹である妻を迎え、三好氏の重臣として頭角を表すことになります。
実休討死後、三好長治(ながはる)の代になり没落していく様は勝瑞城のくだりを参照下さい。
天正5年(1577)に長治を自刃に追い込んだ成相は、一時阿波国の実権を握りかけましが、三好氏の家臣団の矢野房村に一宮城を追い落とされ、四国八十八か所の霊場の一つである焼山寺に身を潜め、
織田信長や長宗我部元親とも款を通じ失地回復を目指します。 成相を追いやった矢野房村が、天正7年(1579)12月に脇城下で三好康俊・武田信顕らの謀略によって狭撃に遭い討死すると、
これを機に成相は一宮城へ復帰を果たします。この成相を追いやった矢野房村の持城は矢野城といい、一宮城から目と鼻の先にある直線処理で3㌔も満たないところにありました。
同じ三好家の家臣としていた頃も隣り合う城同士で軋轢があったのでしょうか。
天正8年(1580)、一宮城は雑賀衆や淡路衆に包囲されましたが長宗我部勢の援軍で救われました。天正10年(1582)、今度は織田軍に攻略され一宮氏の内衆は三好康長に降伏し成相は織田方へ人質とされますが、
同年6月2日本能寺の変がおきると織田方の三好康長は急ぎ京に上り、8月には長宗我部軍と十河存保との中富川の戦いが発生、成相は長宗我部軍の先鋒として活躍しましたが、
合戦勝利後に成相は謀反の疑いにより長宗我部元親に殺害されてしまいます。






一宮城の遺構2<籠城の一宮城>
その後、長宗我部元親は一宮城に南城を新たに増築、家臣である谷忠澄に南城、江村親俊に旧城であるが北城の城代とし多数の守備兵を配置しました。
天正13年(1585)5月、羽柴秀吉の四国攻めでは主戦場となり、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の羽柴秀長勢がが5万兵で攻城し
籠城勢は1万兵でよく守りましたが、兵糧などを絶たれ同年7月下旬に開城しました。
長宗我部元親が降伏すると、同年9月羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、家政は一宮城を居城としました。本丸に石垣を巡らした現在の遺構はこの時改修しました。
翌天正14年(1586)に徳島城を築くとそちらに移り、家臣である益田持正が城代となり阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられてましたが、
一国一城令によって寛永15年(1638)に一宮城は廃城となりました。






一宮城の遺構3<本丸への登城>
登城路は、一宮城神社付近の登山口から才蔵丸までひたすら登って行く道のりでした。
はじめのピークにたどり着くと、そこは才蔵丸と明神丸の間に経ち切れられた大きな掘切が立ちはだかります。
左側へ直登するような形で虎口が階段状に附けられ才蔵丸の曲輪へ入る形になり、先端に東屋が併設されていました。
堀切に戻ると明神丸の曲輪を迂回する形で道がついて、そのまま進むと本丸と明神丸の間を繋ぐ帯曲輪へ通ずる虎口(門跡)に辿り着き、
左に向かうと本丸、右に向かうと明神丸へ向かう交差路になっています。
明神丸への虎口は才蔵丸と同じく直登するような形で虎口が附けられ曲輪に辿り着くには、やや這い上るような感じになりました。
映像にすると説明は必要ないと思いますが、一宮城。やはり見せ場は本丸がある石垣ですねぇ。
簡単に登れそうな階段に見えますが、やはり城郭。自分は手をつきながら本丸に登っていきました。
一宮城の遺構4<水の手>
本丸から小倉丸へ向かう下り道は急坂となっており、2月という時期もあり落ち葉がかさばり、足元が滑りやすい状態になっておりました。
100kg越えの自分は普段から、その巨体うえに膝痛に悩んでいたのですが、そこで滑らないように踏ん張っていたところに膝痛が悪化。
歩けないことはないのですが、そのあと慎重に歩を進めました。
このあと小倉丸に入ると長~い土塁が目を引きました。小倉丸➡長い土塁➡土塁下の堀切➡貯水池跡方面へ続く切岸。三段構えの防御になっており一宮城の最大の防御施設であるように思いました。
が、このあと椎丸と水の手丸をまわりたかったのですが膝痛で勇気ある撤退w。さらに貯水池跡方面へ下ろうとしたのですが、分岐下の大きな岩場で立往生。先日の雪で岩が湿っており一歩飛び降りれば
降りられたのですが、着地先の地面もぬかんでいる状態。「ここで無理して捻挫なんかしたら」と、ちょうど2年前に滝山城で根っ子につまずいて捻挫した記憶が過ぎり、更にここは東京から遥かに遠い徳島県…
もとの本丸方面へ迂回して戻り下城して大事には至りませんでした。












