天空の城砦

阿波 勝瑞城

勝瑞城 [続百名城:175]
250年地方都市として類例のない発展をとげた勝瑞城…

勝瑞城登城口

 この写真は勝瑞城本丸である水堀と三好氏の菩提寺となる見性寺になります。本丸内には土塁が残り、三好氏代々の御霊が眠ります。
 現在、勝瑞城はこの本丸と居館跡に二分され居館跡には空堀や枯山水があったとされる庭園跡が復元されているなど、見学出来るようになっています。

 勝瑞城の歴史は古く南北朝時代からはじまります、遡って調べたところ細川氏と三好氏との主従関係、群青割拠や下剋上。さらには京畿への進出や三好政権の樹立など、 三好氏の繫栄の源は、ここ勝瑞城であったといっても過言ではないと思います。



勝瑞城の本丸遺構

 三好家四代が眠る見性寺の周りには水堀がめぐり、その内側を築城当時は土塁が水堀の内側をすべて囲っていたそうです。
 説明によると、水堀を掘った際の土を盛り上げてつき固め土塁の基底部は12m、高さ2.5m、水堀の幅が14mと現状とは異なり、 かなりの規模だったことが伺い知れます。

 近年の調査によると、この本丸は勝瑞城落城直前の中富川の戦い(天正10年(1582))の折に急造された詰めの城だと云うことが判明しています。
 落城にいたる説明の前に、上記5枚目のお墓の人物の経歴を左から順にに申し上げると。
 三好之長(ゆきなが)(長禄2年(1458)- 永正17年5月11日(1520))・・・
  三好長慶の曾祖父にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将。
 三好元長(もとなが)(文亀元年(1501)- 享禄5年6月20日(1532))・・・
  之長の長子:長秀が早くに戦死したため、長秀の長子:元長が三好氏の総帥として引き継ぐ。
  祖父・父の仇敵・細川高国の討滅を成就するも1年後に内輪揉めによる対立で自害。
 三好義賢(よしかた)(大永7年(1527)? - 永禄5年3月5日(1562))・・・
  またの名を実休(じっきゅう)。元長の次男にあたり、兄に三好長慶がいる。
 三好長治(ながはる)(不明      - 天正4年12月27日(1577))・・・
  永禄5年(1562年)、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、家督を相続する。
  伯父・三好長慶によって畿内の支配力を強めた三好氏の中でも、本国阿波を預かる重要な役割を担っていたが
  幼少のため、重臣の篠原長房の補佐を受けていた。

 しかし、補佐役であった篠原長房を一族の篠原自遁の諫言などによって、三好長治、阿波守護の細川真之らの討伐軍が長房の居城であった上桜城を攻め、 元亀4年(1573)7月16日に嫡男・長重と共に抗戦のうえ戦死してしまいます。
 こうなると、よくある帰結として三好長治の専横がはじまることになります。阿波の国内は荒れ、阿波守護であった細川真之が勝瑞城から出奔してしまう事態となり 混乱の中、三好家の重臣である一宮成相らに攻められ、長治は篠原自遁の嫡男・長秀の居城である今切城に籠りますが、 天正4年(1576)12月27日に自害して果てることになります。 (この他にも長宗我部元親の後援を受けた異父兄の細川真之に敗れ、天正5年(1577)3月28日に自害したとする説もあります)

勝瑞城館

 兄の自刃に際して十河存保は三好家中から擁立され、天正6年(1578)に阿波勝瑞城に入り、阿波における三好家の盛りかえしに努めます。
そんな中、四国内において勢力の拡大を図る長宗我部元親に対して、存保は織田信長の後ろ盾によって反抗が続きますが、 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が倒れると形勢が瓦解していきます。
 8月に入り長宗我部元親により中富川の戦いとして約20日間に亘る攻防戦が勝瑞城付近で行われますが、9月21日に存保は降伏し勝瑞城の明け渡し讃岐へ退去しました。

 ここ何日か16世紀からの三好氏の盛衰を調べてきましたが、まだまだ底が深そうなことが実感できました。
 16世紀前半の京畿地方は、まさに三好氏らが群青割拠の下剋上を繰り広げ、その原動力・兵站基地ともいうべき場所が勝瑞城であったことが判りました。

 最後に三好元長一派が細川高国を追い詰めた兵庫県尼崎市にある大物くづれ戦跡碑です。四半世紀前に撮影した写真になります。
大物崩れ



登城日:令和7年(2025)2月9日

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