下総 古河公方館

古河公方館跡

古河公方館跡 2004年7月31日

名称

古河公方館跡

城の種類 平城

 関東平野での戦国時代に必ず登場する、古河公方の館跡です。

 古河総合公園内に、この古河公方館跡があります。
 夏休み真っ只中の午後、親子連れで一杯かと思いましたが、館跡の周りにはあまり人影は見えませんでした。

 上の写真が御所沼に半島状に突き出た古河公方館跡です。
周りは公園として綺麗に整備され、芝生が青々としておりました。


 左の写真は、館跡から御所沼に掛かる橋から見た古河総合公園北側の模様です。
 
当時は、家臣たちの屋敷がここにあったのではないでしょうか。 この奥には、最期の古河公方、十五代 足利義氏の墓があります。
 

 趣が変わって左の写真は、御所沼南側の様子です。
 北側に比べると、なんとなく当時の様子が残っているようにも思えます。

 「嘉吉の乱」で足利義教は赤松満祐に斬殺され、おかげで命拾いした足利持氏の四男・永寿王丸は、のちに上杉氏に担ぎ上げられ、鎌倉公方として再興します。 しかし、上杉氏と対立し、「享徳(きょうとく)の大乱」後、何回かの会戦を重ね、鎌倉公方・足利成氏は古河へと辿り着きます。
 ここで古河公方となり、関東平野を舞台とした、戦国時代に突入することとになります。


 左の遺構が、半島付根部分に存在する堀切です。
 公方館跡で一番明確に当時の遺構を残しているのは、ここではないでしょうか。
 
 「享徳の大乱」後、初代・古河公方 足利成氏は、古河城を築城するまでの間、この館に居りました。

 当時成氏は、混迷する関東平野の情勢を考え、幕府の衰退を憂い、鎌倉公方を復活させ、京都の幕府と対峙し、あわよくば鎌倉を日本の中心として復活させる欲望に駆られていたのではないでしょうか。
 (作者の勝手な憶測でした)