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羽後 松山城

松山城

松山城 2009年7月16日

名 称

松山城

種 類 平 城
住 所 酒田市松嶺

 山形県お城めぐりシリーズ第2弾・羽後 松山城です。

 上の写真が山形県内で唯一、お城の建造物としている現存している大手門です。
 山形県の県指定文化財でもあります。
 松山城築城時に出来た大手門は、築城後にしばらくして落雷で焼失してしまいましたが、酒田市の富豪であり、松山藩の財政方でもあった本間四郎三郎光丘と本間次郎四郎重利の二人によって、焼失から二年後の寛政四年(1792年)に現在ある大手門が再建されました。

 庄内藩・初代藩主 酒井忠勝が亡くなった正保4年(1647)、長子の酒井忠当が二代目藩主となり、三男である忠恒に2万石を分地して、この地に支藩として中山館が置かれ、寛文四年(1664)、庄内藩内の城名、鶴ヶ岡城・亀ヶ崎城に因んで、地名が中山から松山に改められました。(鶴・亀・松と縁起担ぎ)
 支藩松山城となって三代目の忠休は安永八年(1779)、江戸城西の丸若年寄の永年勤続の功績により幕府から新たに築城が認められて、更に五千石の加増と御用金二千両が許されました。

 明治維新後の明治二年(1869)松山だった地名を、愛媛県の松山との混同を避けるために松嶺に改称させられました。 作者は遠く離れた四国の地名と被っても行政上、問題ないと思いますが。。。 



 左の写真が松山歴史公園内にある、丸馬出跡の土塁です。 上記大手門の南側に位置します。

【作者のひとり言】
 それにしても、松山藩三代藩主:忠休は、約55年間の藩主在任中、江戸幕府の若年寄の期間が約38年間。 晩年にはその功績が認められて、幕府から築城を許されますが、亡くなるまで若年寄であり続けたので、若年寄の特権でもある参勤交代のない定府(江戸にずっといること)、殆ど松山藩には在城していなかったのではないでしょうか。  この忠休が亡くなってしまうと、若年寄の公職も無くなって参勤交代が発生、亡くなった時点で松山城の築城は中止されましたが、築城時の費用や維持費が発生。 忠休の功績はある意味、以降の松山藩にとって、とてつもなく重いものになってしまったのではないでしょうか。