武蔵 上野公園

東照宮・唐門

東照宮・唐門 2003年6月27日


 桜の花見、西郷さんで有名な上野公園です。
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内でした。
幕末、彰義隊と政府軍との戦いで、焼け野原となった場所です。
 作者は小学生の頃から、この上野界隈を徘徊していたのですが、上野公園内には動物園ぐらいしか行ったことはなく、上の写真の東照宮などは見学するまでは、存在すら知らない状態でした。
 この上野にこのような文化財があったとは驚いた次第です。
 この東照宮、明治四十年に国宝指定されたのですが、現在、文化庁のHPを閲覧すると重要文化財指定でした。 戦後に重文になったと考えられるのですが、どうしてでしょう?

 左の写真は輪王寺境内にある旧寛永寺本坊表門です。 この門には今でも彰義隊の戦いで受けた弾痕が残っています。

 上野公園の黒門と云うと、この寛永寺の表門と、左下の旧因州池田屋敷表門、それと幕末まで上野・寛永寺の黒門として存在し、現在は南千住の円通寺に移ったものと、以上三つが有名です。

 京都に行った際、蛤御門の弾痕を見学しましたが、あの時(蛤御門の変)と彰義隊の戦いとでは形勢が逆転しているのが、なんとも不思議な感じがしました。(勝てば官軍、負ければ賊軍。。。今の世界情勢そのものでしょうか…)

 左の写真が、旧寛永寺本坊表門の通り沿い、東京国立博物館の敷地内にある旧因州池田屋敷表門です。
 江戸時代には、現在のJR有楽町駅付近に因幡鳥取藩江戸上屋敷の表門としてありました。
 幕末後、転々と場所を変え現在の地にあると云うことです。 
 門の左右にある唐破風の番所がとても印象的です。

 現代の上野公園といえば、この西郷さんでしょう!
上野公園に行って初めて気が付きましたが、この銅像のすぐ裏には、彰義隊のお墓があります。
 この西郷さん、当初は皇居内に建てられる予定でしたが、西南戦争後、逆賊の汚名は除かれはしましたが、やはり皇居内に建てることは敬遠され、ここ上野公園に建てられたとのことです。
 何故この場所だったのでしょうか? この上野公園はこれまで説明したように、江戸時代の徳川家の遺構が色濃く残っているところです。  西南戦争も無く、初の陸軍大将として存命だったのであれば、この場所に銅像を建立することは、西郷さん。断固として反対したでしょう。 そう思います。

 この他にも、この上野公園にはたくさんの見所があり、目移りしました。 上野大仏跡、京都の清水寺をイメージした清水観音堂。。。 なんと上野公園には古墳があるとは驚きました。
 みなさまも上野公園に行った際は、楽しんで来て下さい。。。