天空の城砦

阿波 徳島城

徳島城 [百名城:76]
小六の息、蜂須賀家政が築城した徳島城…

徳島城登城口

 この写真は三木郭にある鷲之門と、後方にある月見櫓跡、さらに後ろにあるのが城山になります。 鷲之門は慶長8年(1603)以前に既に存在していたと云われ、 大東亜戦争以前まで徳島城唯一の現存建築物でしたが、徳島大空襲により焼失してしまいました。現在あるのは平成の時代に入り復元したものです。
 自分は恥ずかしながら、徳島城は蜂須賀正勝(通称:小六)が四国征伐における論功行賞で阿波一国を受領したと考えておりましたが、 実際は小六の長男である蜂須賀家政が秀吉よりもらい受け、南北朝時代の至徳2年(1385)に細川頼之によってに築城された渭山城を現在の徳島城に築き直したことが判りました。
 家政の受領は父・正勝が高齢であること。秀吉の側近として大阪で仕えることを望んだということが理由だそうです。
 阿波入封後に家政は一旦阿波九城の一つ一宮城へ入城しますが、領国を経営するのに不向きな場所であり、手持ちの水軍の行動が出来なかったため、現在の徳島城を居城として推し進めたそうです。

徳島城の遺構

弁天池のある東坂口から城山へ

 登城当日、徳島城の周辺ではFM徳島さんが主催のマラソン大会が開催されておりました。 8時から登城しましたが多数の人だかり… 自分とはまったく別次元の容姿の方たちの熱気で朝から圧倒されました。
 そんな状況で御殿付近の見学はあまりできませんでしたが、以下が訪れた際の内容となります。

 登城前半での見どころは、やはり本丸東石垣ではないでしょうか。地形に合わせるよう鎬(しのぎ)積みに石垣が積まれています。 なかでも東阪口から登城した本丸東石垣通路から奥に入った2か所の鎬積み(本丸東石垣2、本丸東石垣3)は築城当時からの様子が 現わらているのではないでしょうか。
<今にも石垣が落ちてくるような状況ですので、注意して下さい。>
 本丸東門付近(本丸東石垣4)では通路の半分を埋めた孕み防止用の石垣で補強されています。

本丸

 徳島城の山城部分には、本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸が置かれていました。 本丸は標高約61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分のなかでは最も面積が広く重要でした。本丸には、中央に置かれた座敷と城山の管理人であった御城山定番の詰 めた留守番所のほか、弓橋や東西の馬具、武具、火縄が設けられていました。 櫓は戦いの際には防御施設となりますが、普段は武器を収めていました。藩主は城山麓の御殿で暮らし、城山に登ることは稀でしたが、この御座敷にも藩主専用の部屋があり、 台所も設けられていました。また本丸東部に置かれた鐘は城下町の火事の際に打ち鳴らされ、町人たちの危急を救いました。 本丸の出入り口は東西の門が使われましたが、北口には御座敷の建物で隠された非常時の脱出口(「門」)があり、大名の非常時に対する備えがうかがえます。 東二の丸には三層の天守が設けられていました。一般的に、天守は城郭の最上部に建てられましたが、徳島城では本丸から一段下がった同地に置かれていました。 天守の一階は7間(約14m)四方と大きかったのですが、天守台はありませんでした。 西二の丸には鉄砲櫓と帳、その西方の西三の丸には材木櫓と平が設けられていました。 西三の丸の跡地には、現在水道配水池が設置されています。<現地説明版より>

本丸から西二の丸へ

 登城後半の見どころは、やはり弓櫓付近の本丸西側虎口ではないでしょうか。 城内で一番大きい構造物と思われ 築城当時、どのような櫓や門構えだったのか想像するだけで萌えてきますw。ここから下っていくと西二の丸、西三の丸と曲輪が続いていきます。

 最後に心残りだったのが「舌石」を見逃したこと。徳島城博物館で「他の城郭で見ない塀だなぁ」と思い、帰りがけにJR牟岐線の歩道橋を跨ぐ際に 「橋の上から確認しないと!」と思っていましたが…忘れて渡り切ってしまいました。「舌石」は屏風折塀の支柱の土台となる石垣から突き出たものですが、 この屏風折塀は平坦な塀から三角形の形で外に突き出し、側面方向の攻撃が可能となり防御性を高めていました。旧寺島川に面する石垣に等間隔で並んでいたそうです。
<汚い絵ですがぁw>

舌石

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