伊豆 長浜城
<北条水軍のお城>
富士山の手前にかかった雲が抜けるのを待って撮ってみた、第二曲輪から見る復元された櫓と第一曲輪になります。
長浜城は駿河湾から沼津寄りの更に内海に入った内浦湾の波の静かな湾口岸にある小山に築かれた城郭になります。
文献によると本格的に城郭として運用されたのは、武田氏による三枚橋城築城によるものとされ、北条方の東の要である韮山城の支城として機能しました。
紀伊国出身で北条氏に雇われ、里見氏との戦いで活躍した梶原景宗が水軍の将として、ここ長浜城を治めており、
北条VS武田との海戦が、両軍とも海賊行為に特化した傭兵たちにより目の前に広がる駿河湾内で何度か行われ、
その際は水軍の安宅船の海軍基地として機能されていたようです。
現代の発掘調査によると、15世紀後半からの陶器類が見つかっており、城郭としての機能はこの頃からありました。
長浜城の遺構
駐車場にはトイレが整備されており、あわせて長浜城の解説板(写真1枚目ほか複数)や、立体的な縄張図が展示されていました。
ここから先は、赤い鳥居と整備された階段があり、登り口は二通りに分かれています(写真2枚目)。
鳥居側の登り口が当時からの登城口であった可能性が高いと思われますが、途中に工事用コーンが設置されているため、登城の際は右側の階段を利用したほうがよさそうです。
階段の途中には第四曲輪へ入る分岐があり、堀切から第四曲輪へ上がる階段が設けられています(※令和8年1月現在、階段に破損箇所あり)。
第四曲輪の写真撮影には失敗してしまいましたが、そこから第三曲輪の土塁下を通って第二曲輪へ向かう動線が確認できます。この道は、
土塁上から側面攻撃を受ける構造となっており、防御上の意図が感じられます。
さらに進むと、第三曲輪と第二曲輪の間に設けられた虎口に到達します。
当初、この地点には堀切が存在し、第三曲輪と第二曲輪の間の土塁上には、跳ね橋の主柱であった可能性が高いと推定される、
岩盤をくり抜いた柱穴が調査によって発見されています。しかし、その後この堀切は埋め戻され、幅を狭めて虎口へと改造されたことが判明しています。
第三曲輪縁部に残る別の柱穴跡が門柱に由来するものと推定されています。
そして長浜城のメインとなる第二曲輪、第一曲輪へと続きます。その中でも第二曲輪、第一曲輪にある堀、自分的には北条氏の城郭の代表格である
障子堀の一種ではないかと考えています。この堀は安山岩を削り込んで深さは1.6㍍となっています。
これだけ小規模な山城に対して、跳ね橋や、この障子堀などの仕込みが詰め込み過ぎなように見えるのは自分だけでしょうか。
最後に、この城郭の所々に石積されている箇所を見受けましたが、ネット上で調べたところ石積に対する情報はありませんでした。ほかのサイトをみると
築城当時の石積みとして説明されているものがありましたが、沼津市文化財センターなどの文献には石積みに対する説明はなく、ChatGPTでも
確認してみましたが、明確な回答はありませんでした。
自分的には昭和40年代まで、この城郭には財閥系の別荘があり、その際に生成されたものではないかと勝手に考えております。

