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上の写真を見て感じたことは、天正十五年(1590)に七万の軍勢が中山城を取り囲んだ際、守城側の兵士達は何を思ったのか。 予想では相当数の脱走兵がいたでしょう。。それでもここを死に場所と決めて、肝を据えたのでしょうか?
眺望が良い分、兵士達は状況がよく読めたでしょう。。
それとも、ここで数日間耐えれば本城の小田原城から救援が得られると考えたでしょうか?
この眺望を見て想いをめぐらしてしまいました。
左の写真が岱崎出丸最大の要、一の堀です。
この一の堀の右下は、旧東海道が通っていますが、堀としての機能は、その旧東海道までを指します。
しかし攻城側の兵士達は、この一の堀にはあまり近づかなかったのかもしれません。
その理由が下の写真の『構築途中の曲輪跡』です。
説明によると「御馬場曲輪西堀の堀を掘ったときに出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、北側には土塁が積まれている。 遺構らしいものはそれだけであるが、尾根を削り成型しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、そのまま工事の途中で戦闘に突入したものであろう。ここの整備にあたっては、当時のゆるやかな西側への下り傾斜を再現し、構築途中の様子がしのばれるよう配慮した。」
作者が登城した際も、上の一の堀と見比べて下の曲輪には光と影を感じました。。。
しかし、まだ発掘途中で結果が出ているものではありません。
もしかすると一の堀以上の遺構が眠っているかもしれません。
最後に八王子城以来、久々の登城。 山中城は見応え十分でしたぁ。。。
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