武蔵 岩槻城

岩槻城:空掘

岩槻城 空掘 2003年5月18日

名称

岩槻城

別名 白鶴城

城の種類

平城


 武蔵 岩槻城です。

 上の写真は岩槻城の新曲輪・鍛冶曲輪を縦横に走る空掘りです。
この通路の底には、『堀障子』が埋まっていると近くの説明版にありました。

  左の写真も鍛冶曲輪にある空掘です。
 
現地の説明では『堀障子』とありましたが、ここでは一般的な『障子堀』と云う名称で説明します。
 
実際に空掘りの上にある土塁から空堀を除いて見ましたが、なるほど下から登ってくる兵を鉄砲や矢などで狙い打つことができる構造になっておりました。 その上、この堀底に障子堀などがあればさらに精度が上がること請け合いです。
 この障子掘りから、北条の城だったことが伺えます。

 大田道灌が江戸城、川越城とともに古河公方に備えるために築城したのが岩槻城のはじまり。 その後戦国時代に入り、関東の諸城と同じように北条家、徳川家と移り変わります。
 この城は幕末まで在り、江戸時代中期頃にはあの『大岡越前』の血族、大岡家が八代にわたりここ岩槻藩を治めていました。

 左下の写真は移築・復元している黒門と呼ばれていた長屋門形式の大手門です。
 その下の写真は裏門と云われているもので、本柱には明和七年(1770)に大岡氏の家臣の名前が記載されおります。
 しかし、城郭のどの位置にあったものかは判っておりません。

 

 ここまでの説明は総て新曲輪・鍛冶曲輪の説明です。 ここ岩槻城にも本丸・二の丸・三の丸まで存在していたのですが、殆ど消滅しておりました。 寂しい…。

 大手門近くに当時の遺構の説明があり、本丸・二の丸・三の丸、その他の曲輪は沼の中に点在し、沼城?といった感じでした。
 沼の中に曲輪が存在し、その外周に元荒川があるといった要害です。
 江戸時代当時も上記のような状態で、城下には日光御成街道が通っておりました。
 当時の岩槻城下は賑わっていたことが伺え知れます。

 現住所にも「本丸」と云う住所があり散策したところ、本丸近くのラーメン屋さんの裏にこんもりとした林があり、踏み入ってみました。
 (あんまり変なところに入ると通報されるかも知れませんので、ご注意を!)
 そこには土塁らしき遺構があり、その先は住人の居ない建物がありました。
 今から考えると二の丸址だったのかも知れません。。。