武蔵 赤山陣屋

赤山陣屋:東掘

赤山陣屋 空掘 2004年7月24日

名称

赤山陣屋

城の種類

陣屋


 武蔵 赤山陣屋です。

 上の写真は赤山陣屋・東掘です。 この赤山陣屋がある安行地区は植木の町としても有名です。 この空掘はその特色を生かして、綺麗に刈り込まれた垣根が見事に映え渡っております。

 この付近は公園としても整備され、遊歩道などが空掘伝いに設けられ、要所には赤山陣屋を説明する看板が至る所にあります。


 左の写真が本丸の南側にあたる南東掘です。 この写真の左側が本丸になります。 写した場所が表御門付近にあたり、この反対側にも南東掘が続いています。
 この本丸南側の空掘(写真左側)には一列に桜の木が植えられていて、春には綺麗に咲く乱れるのではないでしょうか。
 
 赤山陣屋を説明する看板の一つによると、本丸の敷地だけでも後楽園遊園地の広さがスッポリ入ってしまうほどあるそうです。 また、本丸・二の丸・出丸・家臣屋敷地帯をあわせると、77㌶にもなります。
 この陣屋の縄張は、低地に囲まれた台地の上に築かれ、伊奈流と云われる優れた土木技術を背景に、自然に逆らわず合理的に築かれています。


 左下の写真が、本丸の西堀にあたるところです。
 左側が二の丸、右側が本丸になります。
 この写真の後方は空掘になっていますが、ここから若干下り坂になり、土塁だけが北側に向かっています。

 

 この陣屋の領主である伊奈家は、家康が関東入封後に初代関東郡代となり、寛永6年(1629)三代目・忠治の代に、ここ赤山陣屋を構えます。
 伊奈家と云えば、あの有名な玉川上水や、宝永四年(1707)の富士山噴火、天明三年(1783)浅間山大噴火などの救援と、数々の業績を残しています。
 しかし、寛政四年(1792)、十二代・忠尊の代に、伊奈家は改易されてしまいます。 改易の理由は諸説あるようですが、歴代する伊奈家の数々の偉業から幕閣に目をつけられ引きづり降ろされてしまったように作者には感じられます。
 

 この赤山陣屋の特質は、何と言っても1800mに及ぶ空掘でしょう。 本丸の空掘をまわるだけでも、ちょっとしたマラソンコースになるのではないでしょうか。

 左の写真が山王神社の本殿です。
 
本殿に登ろうとしましたが、一匹の大きなハチ(スズメバチかは不明)が過ぎり、よく神社を参拝中にスズメバチに刺されると云ったニュースなどが頭をかすめ、辞めときました。。

 見学中、赤山陣屋内に住んでいる、おばあちゃんとお話が出来
なんでも平成四年頃から、空掘などの発掘調査がはじまり、このような公園が出来たそうです。

 あと、伊奈家の衰退を無念そうに語ってくれました。