岡城[百名城:95]
岡(おか)城は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にある山城で、「臥牛城(がぎゅうじょう)」、
「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれます。
伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるようです。
南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、
岡城と名付けられたとされています。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、
同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたとされているそうです。
天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、
岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し(豊薩合戦)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けています。
豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることになります。
翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施しました。
この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に
本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けました。本丸に御三階櫓を設け、
城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、
3口としました。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備されます。
豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領を安堵。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、
3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営しています。
岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には
本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きています。
明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、
現在残っているのは高く積み上げられた石垣だけとなっています。