天空の城砦

備中 備中松山城

備中松山城 [百名城:68]
現存天守、最高峰の山城・備中松山城址…

備中松山城登城口

 現在の備中松山城から内陸側に入った山域に、大永年間(1521年-1528年)に備中松山惟治によって栂牟礼城が築城されます。
備中松山惟定の代に入り、主君の大友義統が文禄の役において敵前逃亡をとがめられ改易、これにより惟定も備中松山城をおわれることになります。
 関ヶ原の戦功により、1601年(慶長6年)に毛利高政が備中国日田郡日隈城より栂牟礼城に入城します。 しかし険阻で平時の統治には不向きだったため、 翌1602年(慶長7年)から番匠川河口近くの八幡山で新城の築城に取り掛かり6年の歳月をかけて1606年(慶長11年)に備中松山城が完成します。




備中松山城 三の丸櫓門からの登城

備中松山城登城口

 三の丸櫓を潜り山側へ暫く歩いていくと二股に分かれる写真の登り口が見えてきます。正面登口(写真左)が「登城の道」、右側へまわり込むように登って行くのが 「独歩碑の道」(写真右)になります。 この日のルートは「登城の道」から石塊がゴロゴロしていて登りづらい道を二の丸石垣下まで25分かかり、 帰りは「独歩碑の道」から下って途中コンクリートで整備され道で二股の登り口まで15分かかりました。 「登城の道」は往時からの登城口で、 九十九折の巻き返しに石垣によって補強されている箇所が数か所ありました。

 これから登ろうとする際に坂道で部活の練習をしていた高校生たちが挨拶をしてくれました。 遠く?東京から一人で登城する身にとって励みになりました。ありがとうございます。
 城下の高校であれば備中松山鶴城(かくじょう)高校の生徒さんだったのでしょうか。調べてみると備中松山城の別名である「鶴ヶ城」からとったとされるネーミング、 とてもセンスがよいですね。 しかも卒業生には有名なスポーツ選手やキヤノンの経営者なども輩出している学校でもあるとのこと。 「国木田独歩」など、このお城が秘める力を感じました。

備中松山城の遺構

本丸・渡り廊下付近の石垣

「登城の道」を登りきると1枚目の写真に辿り着き外曲輪と本丸の石垣、それと廊下橋にあたる箇所が見えてきます。 本丸外曲輪の入り口にあたるここには藩政当時は門が構えられ後方には物見櫓がありました。  左に廻り込み2枚目の石畳を登り往時あったであろう門を潜ると二の丸(3枚目)に至ります。 本丸にあがるには更に右へ廻り込み、 本丸と二の丸を分け隔だつ堀切を「渡り廊下(5枚目)」を潜って本丸へあがる石段を登ることになります。5枚目が石段を渡り切った後に振り返った写真になり、この付近にも櫓門を構えていたようです。

 渡り廊下を潜った後に現れる石段ですが左側に寄って作られています。櫓門がある石段を登り振り返ってみると渡り廊下の右側しか見えません。 これは廊下橋を渡ってきた敵兵に対して矢を射貫けるように射角を附けたのではないでしょうか。敵兵が廊下橋から射貫こうとすれば左半身を相手に晒すことになり効果的です。
 このような複雑な縄張から、渡り廊下付近の構造物が備中松山城・一番の要ではなかったかと登城して感じました。本丸へあがれるのは渡り廊下を通るしかありませんし、 背後には最後の砦である天守がある本丸最後の防御施設です。いかがでしょうか。
 次が本丸外曲輪を東側から見た写真になります。「独歩碑の道」から登ってくると本丸へあがる石段が登城者たちを迎えてくれますが、 この石段は昭和に入って毛利神社が建立された際に設置されたもので、両サイドの石垣が丸みを帯びた箇所も元々は隅角が付けられていましたが、 神社を建立する際に積み直されたとのことです。

二の丸に連結する西出丸

 備中松山城は冒頭のとおり別名:鶴ヶ城とも呼ばれ、鶴翼のように縄張が拡がる左上腕部分が二の丸にあたり前腕が西出丸となります。 その肘にあたる部分が1枚目の写真にある二の丸虎口の渡櫓門跡の石垣であり、2枚目が渡櫓の先端部分にあたります。写真だと判りづらいですが両側の石垣に威圧感を受けました。 往時はどんな渡櫓だったのでしょうか。
 3枚目は西出丸の大門という冠木門跡で礎石が確認できます。次が西出丸の翼端に当たる二重櫓跡です。
 次の写真は城郭の遺構ではないのですが、戦時中に施設された高射砲跡となります。  城下に拡がる備中水道は呉軍港に出入港する艦艇が必ず通過する海域を守るため、備中松山町番匠川河口の女島に昭和9年(1934)12月1日に備中松山海軍航空隊が開隊されました。 その航空隊を見下ろせる場所に高射砲を施設したのではないでしょうか。本丸にあった毛利神社が空襲により焼失したことを考えると、高射砲の監視施設と思われての攻撃だったのかもしれません。
 次が二の丸から望んだ栂牟礼城(赤矢印)と支城の小田山城(青矢印)になります。今の城下の発展を考えると、栂牟礼城からの遷城は地形的に正解だったと思います。

北出丸から帯曲輪へ

 備中松山城、鶴翼の右腕部分あたる縄張が北の丸にあたり、本丸外曲輪から北の丸への境に本丸外曲輪櫓門跡(左上)があります。  写真右後方にあるのが次の水の手門の石垣になります。次の下り道が城の水瓶となる雄池・雌池へ繋がる道筋にあたりますが、このポイント、  登城の際に縄張図が頭に入っておらず行けませんでした。(残念...🐻)
 次が本丸石垣へと続く4段からなる石垣です。 これは享保19年(1734)に崩れた斜面の復旧とために築かれたものだそうです。  そして、本丸外曲輪・冠水門を下から天守台方面を観た構図、さらに下った箇所に本丸下の帯曲輪と続き、下城しました。

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