下総 逆井城

逆井城・二層復元櫓

逆井城 復元櫓 2004年7月24日

名称

逆井城

別名

飯沼城

城の種類 平山城

 下総・逆井城(さかさいじょう)です。 初の下総(茨城県)の登城に進出しました。
 戦国末期の復元、かつ土塁上に建つ櫓があるお城として、興味をそそられます。

逆井城は15世紀半ばの文献から、その存在が記されていて、逆井尾張守が築城したとされています。
戦国末期に入ると、この逆井城は北条家の勢力圏内に入ったようで、北条家側の文献によると、その城名は飯沼城としていたようです。
 現代に入り発掘調査した結果、土塁の土中からは古い土塁が発見され、逆井城の城域に飯沼城として北条家により築城したと云う説が濃厚のようです。

 上の写真は大手門脇に建つ、二層櫓・平櫓・井楼(せいろう)と、それを取り巻く板塀です。
 
往時、この板塀は土塀となって一・二曲輪の土塁上を、めぐっていたことが発掘の結果判ったそうです。
 この二層櫓は縦横3間の櫓台の痕跡があったことから、時代背景に基づいて復元しています。

 左の写真は、二層櫓から見た平櫓と井楼です。
その向こう側は築城時、蓮沼があった箇所に当たります。
 この平櫓は外堀にある犬走りに出るための木戸でもあったようです。
 左下の写真が、二曲輪の横矢掛りにあたる空掘と土塁です。
 
この空掘と土塁は「比高二重土塁壕」と呼ばれており、城内側の土塁が高く、城外側の土塁が低く積まれております。
 このような築城技術は後北条家特有のもので、この城が飯沼城である証でもあります。
 この二曲輪の空掘は実際はこれより3m程深くなっていて、遺構の保護のために埋め戻されています。
 この空掘が3mの深さがあったとすると、同じ北条家の空掘である、埼玉県の岩槻城の鍛冶曲輪の空掘を連想すると、当時の逆井城の空掘の様相が想像つくかもしれません。

 

 左下の写真は、関宿城にあった薬医門を移築したものです。
 門の骨格を見ると、門の素材としては立派なものが使用されています。
 この関宿城の薬医門は、廃藩置県時に猿島(さしま)内に払い下げられたと伝われるものです。

 

 この他にも、一曲輪の空掘にかかる橋や二階門。 大台城の遺構を参考にした主殿など、「野外の城郭博物館」として、数々の展示物があります。
 一曲輪(いわゆる本丸)部分での撮影は失敗(光量不足)してしまったのが残念ですが、満足のゆく登城でした。