但馬 八木城・土城編


 左の写真は、先ほどの本丸の石垣から土城方面へ向かう場所です。 この写真ですと判別が難しいかもしれませんが、意外と深い堀切があります。(手前から中央付近に向かって下っています) そして尾根伝いに土城方面に道?があります。
 左下の写真は土城に向かう登り道です。 傾斜になっているのが判りますでしょうか? この道を登ると土城に出れるのですが、この時期落ち葉がものすごく堆積していて、なかなか前に進むことが出来ませんでした。


     【但馬 八木城の歴史】
 本丸にあった「八木城址保存会」の説明の看板によると「鎌倉時代初期八鹿町朝倉に住みし豪勇世に聞こえた朝倉高清がこの西方の峯に築かれていた土城の城主閉伊十郎行光と戦い勝利をした後、三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれております」と、ありました。
 「朝倉」。どっかで聞いた名前ではありませんか? そう「姉川の合戦」などで有名な戦国時代、福井県の一乗谷城にいた朝倉氏です。 この八木城主の八木氏は朝倉家の親類となります。
 

 鎌倉時代から400年余り15代にわたり八木氏がこの地域を治めます。 南北朝時代に入ると、関東から但馬の出石に入った山名氏の傘下に入り、山名四天王の一人として名を馳せます。 この山名四天王の一人に竹田城の太田垣氏もおります。
 山名氏も衰退し、織豊時代に入ると織田信長の天下布武のもと、羽柴秀吉の弟、秀長が但馬地方を平定します。 その中でこの八木城も秀長の軍勢によって落とされてしまいます(天正八年)。
 その後の天正十三年、秀吉配下の別所重棟が城主となり、二代・吉治の慶長五年(1600年)迄、15年間続きます…。
 本丸の石垣はこの時代に築かれたとされています。 



 但馬地方にもう一つ。このような生い立ちを持つ竹田城があります。 山名氏時代の四天王、秀吉の時代となっての転封、関が原までの15年間。 似ている箇所は多くあるのですが、八木城と竹田城。 城自体の容姿には相当な違いがあります。 何故でしょう?

 勝手に作者が考えた理由は、城主の人望に差があったのでは?と、考えます。
 

 別所重棟は、三木城主・別所長治の叔父に当たるのですが、「三木の干殺し」の際には、敵方として三木城の包囲戦に織田方として加わり、その後、この八木城主となります。 一方、龍野城の赤松家は織田方には降伏したものの、竹田城に転封となりました。 本家・置塩城の赤松家は阿波の国に転封となってしまいましたが、やはり今迄の播磨の明主・赤松家の人望で、瀬戸内海の向こう側の本家ではなく、同じ陸続きの但馬の竹田城に数多くの人材が流れたのではないでしょうか? 
 どのような理由にしろ、おなじ年代、同じ期間、おなじ但馬地方でこのような築城の差が出てくるのは、なにかしら理由があるはずです。




 左の写真が土城の本丸から写した、曲輪群です。 ここからだと観づらいかもしれませんが、三段先の曲輪まで確認できます(本丸まで何段逢ったか忘れてしまいました)。
 一段目の右側が土塁となり、その先に盛り上がっている箇所が左下の写真の虎口です。

 この土城全体、落ち葉で覆い尽くされてしまって判りづらいのですが、実際に登った感想だとクッキリと曲輪の遺構が確認できます。 近年、この土城を整備したのでしょうか?と、思えるほどです。 上から2番目の写真を登っている際には、「土城って云ってもたいしたものないかぁ?」と思っていましたが、予想以上な収穫でした…。

 実際にこの城では、大きな戦が2・3回はあったと考えられます。 現代人の足では比較にならないでしょうが、ここまでただ歩くのにも相当な運動量です。 その上、戦となれば様々なトラップ、相当数の兵どももいます。
 ここまでの曲輪数はいったいいくつあるのでしょう? 
 「山城って奥深いなぁ。。。」と考えさせられる登城でした。