館城(たてじょう)
【構造:平山城】
【築城:明治元年(1868) 廃城:明治元年(1868)】
【主な城主:松前徳広】
【遺構:曲輪・土塁】【国指定史跡】
【地図:渡島半島】
≪登城日:令和元年12月2日≫
箱館戦争勃発直前の明治元年7月、松前城で起こった尊皇派のクーデターにより正義隊が松前藩を掌握、開設されたばかりの明治政府が運営している箱館府に対して、9月1日に館城築城の申請を請い、突貫工事で10月末に一応の完成をみました。
築城完成から陥落まで15日間。
彼らは館城を退く際、どのような想いを抱いて敗戦を迎えたのか。
この半年後、政府軍が乙浜から上陸して、この館藩城下を通り五稜郭へ進軍していきます。
その隊列に松前藩兵の姿はあったのでしょうか。
館城の経緯
11月 1日:旧幕府軍が松前城に対して砲撃を開始。
11月 3日:松前藩主一族、館城に到着。5日:松前城陥落。
11月12日:稲倉石にて旧幕府軍と会戦。(旧幕府軍約200名vs.松前藩兵約100名)
11月12日:藩主一族、江差方面にに避難(守備隊は60名程度)。
11月15日:館城攻略戦が行われ陥落。
稲倉石会戦
未完成で無防備と言ってよい松前藩館城にとって、この稲倉石は重要な砦でした。そのため松前藩は今井興之丞を隊長に 100名余の兵と4門の砲座を据え、自然の要害に加え20メートル余に丸太の柵を築き、網で宙吊りにした丸太を落下して攻撃をくいとめる仕掛けも作り守備を固めていました。
明治元年11月12日の交戦には幕府脱走軍隊長松岡四郎次郎隊 200名余の兵は正面隊と左方の山をよじ登った隊に分かれ、山頂から塞門を真下に銃撃する奇襲作戦をとったため、不意をつかれた松前軍(今井隊長は不在であった)は立木、柵木を盾に4時間余にわたって奮戦するも弾薬が無くなり、陣屋に火を放って退却したのです。 この敗戦が、館城の運命を救いがたいものにしたと言われています。
<稲倉石古戦場の案内板より抜粋>
この古戦場は狙って来たのではなく、たまたま休憩で降り立った場所が稲倉石でした。維新たちの英霊が呼び寄せてくれたのでしょうか。