五稜郭[百名城:02]
【日本百名城:02】
【別名:亀田(御)役所土塁、柳野城】
【城郭構造:稜堡式】
【天守構造:なし】
【築城主:江戸幕府】
【築城年:1866年】
【廃城年:1869年】
【遺構:土塁、石垣、堀、兵糧庫】
【指定文化財:特別史跡】
【再建造物:奉行所、板庫、土蔵】
<登城:令和元年12月1日>
自分のご先祖様が五稜郭に眠っているとの一次情報を耳にして、五稜郭へ登城しました。
結果的には誤情報でしたが、念願の五稜郭への登城に満喫してきました。
五稜郭の遺構
登城してみた感想は、大手口と裏門との作りが対峙していたこと。大手口付近では「刎ね出し」などの構造物もあり
石垣もある程度高く積まれていましたが、裏門付近では「刎ね出し」はなく石垣や土塁も、さほど高くなく積まれていたことが
印象に残りました。当初の計画では各稜堡に5か所の半月堡がありましたが、予算の削減により1か所だけに削減されてしまいます。
箱館戦争のクライマックス、戦艦からの砲撃や新政府軍上陸後に設置された大砲により一方的に砲弾が雨あられの様に撃ち込まれ、
土塁の内側に身を寄せて凌いでいたそうです。
箱館戦争の推移
明治元年:旧幕府軍の蝦夷地平定
鷲ノ木上陸
10月21日:
旧幕府軍の榎本艦隊が鷲ノ木(わしのき)に上陸。図にある通り川汲峠ならびに大野方面の二手に分かれ五稜郭方面へ進出。
それぞれ箱館府軍と松前藩兵と会戦、旧幕府軍が各個撃破して箱館府軍を青森へ追いやり五稜郭へ入城します。
松前藩兵との戦い
10月21日:
松前藩は少数の藩兵を松前城に残し、突貫工事で急造された館城へ藩城します。
10月27日:
土方歳三が総督として松前城攻略へ向かいます。
11月5日:
11月に入り旧幕府軍が松前城へ砲撃が始まり、土方率いる旧幕府軍が搦手門を打ち破り松前城は陥落、藩兵は城下に火を放ち江差方面に逃走します。
11月12日:
館城では松岡四郎次郎が率いる旧幕府軍が館城手前にある稲倉石で松前藩と会戦、4時間にわたる激戦となり松前側の銃弾が尽き館城へ退却。
(写真は稲倉石古戦場になります。)
11月15日:
館城での城攻めとなり、藩主一族は江差方面に避難し館城守備隊は寡兵の状態で午前9時頃に戦端が切られ白兵戦となり、昼頃には落城して松前兵は敗走することになります。
明治2年:政府軍の反撃
政府軍、乙部に上陸
4月9日:
新政府軍は1500名を乙部に上陸させ、旧幕府軍は上陸を阻止すべく150名を派遣するも先鋒の松前藩兵により撃退され撤退。
二股口の戦い
4月10日:
土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊300名が二股口に進軍、13日正午過ぎに700名の新政府軍から攻撃を受けるも撃退。
4月11日:
伊庭八郎率いる遊撃隊ら500名が江差再奪還のため出撃。
4月12日:
新政府軍、2800名が江差に上陸。
陸軍奉行・大鳥圭介の指揮下、伝習隊、額兵隊が進軍、彰義隊などと合流し、500名が木古内口に布陣。
4月14日:
仙台藩を脱藩した見国隊400名が鷲ノ木に上陸。
4月17日:
新政府軍は松前を艦砲射撃などにより攻撃、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城を放棄、知内まで敗走。
4月20日未明:
木古内口の新政府軍が総攻撃を開始すると昼ごろまで激戦が続き、旧幕府軍は額兵隊と遊撃隊などが最後まで踏み止まったが、
70名以上の死傷者を出して泉沢へ後退。
伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊らを救うべく再び木古内へ再突入。知内の部隊も木古内へ突入し、
挟撃を恐れた新政府軍が撤退、木古内を奪還するが地形的に有利な矢不来まで後退、砲台と胸壁を構築。
4月22~25日:二股口
新政府軍は再度攻撃を試みるも土方軍は伝習士官隊の抜刀などでこれも撃退。旧幕府軍は新たにくる敵に対して熱くなった
銃身を水桶で冷やしながら、小銃で応戦し続け25日未明に新政府軍は撤退。
4月29日:
新政府軍は総勢1,600名を本道、海岸、山上の三方から矢不来を攻撃。旧幕府軍は海上からの砲撃などにより総崩れとり、箱館方面へ敗走。
二股口の土方軍は矢不来が新政府軍に突破されると、退路を断たれるのを恐れ五稜郭へ撤退。
そして五稜郭周辺での最終決戦をむかえます…