天空の城砦

美濃 小里城

小里城
「織田信長」や「織田信忠」が岩村城の戦いの折に滞在

小里城

小里(おり)城の歴史

 小里氏は土岐氏の流れをくむ一族とされ、小里光忠[下記 図①]が天文3年(1534)に小里川南岸に小里(こり)城を築きました。
近隣の明知城の明知遠山氏と結び、遠山景行の娘を嫡子・光次[図②]の嫁に迎えています。
 天文24年(1555)に甲斐国の武田信玄の圧力に遠山諸氏が屈すると、小里光忠も武田氏に与同したとみられます。
 その中、織田方へも款を通じ元亀3年(1572)になると武田信玄の西上作戦が本格化し、秋山虎繁の軍勢が遠山氏の領地である東美濃を狙って攻め込み、 同年12月27日※に上村(かんむら)合戦がおこります。
 光忠没後の嫡男の小里光次は、織田方として遠山景行、遠山友忠(飯羽間遠山氏)、奥三河の山家三方衆の奥平定能、奥平信昌、菅沼定忠、菅沼正貞らと共に 合戦に及びますがこれに敗れ、光次は義父の遠山景行等と共に討死し、家督は小里城に在城していた次子の小里光久[図③]が継ぐことになります。

※上村合戦の発生は、元亀元年(1570)説(『甲陽軍鑑』『武田三代軍記』『美濃国諸旧記』)と元亀3年(1572)説の2つの説があるが、 ここでは現地の説明(『小里家家譜』)を尊重して、元亀3年説としています。

小里城

本能寺の変

 天正2年(1574)正月に入ると、信玄公の後を継いだ勝頼が小里城の鼻先にある明知城、串原城などを一斉に攻撃。 信長は小里城に池田恒興、土岐町の鶴ヶ城(神篦城)に河尻秀隆を置き、両城の普請を命じてこれを最前線として対抗します。  現在、山上に残る天守台付近の石垣群はこの時期に築かれたいわれています。 翌天正3年(1575)に長篠合戦で大勝すると、信長は直ちに信忠を総大将として岩村城を囲みなすが、 その際小里城に本陣を置いて岩村に発向したともいわれ、小里光久などの東濃諸将は岩村城への兵糧の道を断つために出陣したと伝えられています。 しかし、岩村城陥落後の天正10年(1582)の本能寺の変の際、小里光久は二条城の信忠のもとで22歳という若さでの戦死。 家督は叔父の光明が継承することになります。
 信長没後は、羽柴秀吉と意を通じた森長可(金山城主)が東濃を支配し、織田信孝と通じた小里光明は森勢と交戦することもあったようであるが、 天正11年(1583)には信孝が自刃し、光明は子の光直と共に小里城を離れて浜松の徳川家康のもとへ逃れます。 翌天正12年(1584)、秀吉と家康による小牧・長久手合戦に際しては光明・光直親子も参戦。 光明は山田岩(瑞浪市山田町)を攻略するという戦功をあげるも、 光直戦死という不幸に見舞われます。 その後も光明と孫の光親は家康に従い、天正18年(1590)家康が関東へ移封されると、共に関東へ向かいます。

関ケ原の戦いへ

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、西軍(石田方)に押さえられていた東濃地方においても合戦が繰り広げられ(関ヶ原東濃合戦)、 旧東濃諸氏はいずれも東軍(徳川方)に属して光親は光明とともに参戦します。 光親は9月2日には明知勢と共に明知城を攻略し、3日には小里城を奪回しました。 関ヶ原東濃合戦での戦功が認められた小里光親は、土岐郡内9か村、恵那郡内2か村の3580石を与えられて再び小里城を居城とした。 小里氏は幕府の旗本になりますが、石高が 3000石を超える上級旗本であり、また小里氏のように領地に在住する旗本は交代寄合と呼ばれ、参勤交代を行うなど大名と同等、 また、それに準ずる扱いを受けたといわれています。 小里城の山麓にある殿場跡は、江戸時代に小里氏の陣屋(役場)、屋敷(御殿)が置かれたと伝えられる場所で、『濃州小里記』には、詳細な時期は触れられていませんが、 光親が内室を迎えるにあたって広間と石垣を築いたことが記されています。  その後、元和7年(1621)には光親が没し、子の光重が家督を継承したが、光重が嫡子のないまま元和9年(1623)に22歳という若さで没すると幕府から断家を命じら、 家臣らは弟の政衆に家督を継承させることを嘆願しますが実現せず、領地は天領(幕府直轄地)となり、宜政は州松本へ、政衆は江戸へ、政郎は大垣へと移り、まもなく小里城は廃城となってしまいます。

小里城の遺構

 2年ぐらい前に小里城の存在を知り興味を持ち、いつかは登城したいと思っていたのが実現できました。  事前に山上に天守台といわれる石垣群があることは知っていましたが、登城口にある城主館(御殿場)や大手門跡だけ見ても 立派ば石垣であったため満足しましたが、いざ登山口から登るとしばらくは山道が続き、本当に山上の石垣群が存在するのか 疑うほど30分ほど登りきると、石垣が見え、天守台といわれる石垣群が現れたときは感動しました。 特に天守台の石垣は、かなりの高さがあり見ごたえがありました。

本丸に散乱している石垣をみて破城した跡ではないかと感じました。
現在存在する天守台は昭和20年代に復元したものであり、織田氏が築城した際の様子は、また違っていたのではないか。 そんな思いがいたしました。
しかし、自分としては近年の山城の登城で最高ランクです。。。(マムシが怖かった…w)

登城日:令和6年(2024)2月24日

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