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美濃 岐阜城

織田信長公居館跡から見る復元天守

岐阜城:織田信長公居館跡 2008年11月16日

名 称

 岐阜城:織田信長公居館跡

種 類  平山城(守谷市指定史跡)
住 所  茨城県守谷市

 上の写真が岐阜城:織田信長公居館跡の御馬家台と平台の間を断ち切る空掘です。

 消化不足だった菅生城登城の後に、この岐阜城:織田信長公居館跡にやってまいりました。
 公園にある城跡だけに整備され過ぎてしまってるのでは?と思っていましたが、遺構はすばらしく、大変満足のいく登城となりました。

【岐阜城:織田信長公居館跡の歴史】
 岐阜城:織田信長公居館跡址公園内の平台にあった、案内板の年表から要約すると、
『大永五年(1525)、「足利高基書状」の史料から「相守因幡守(相馬守谷因幡守)」と称する相場一族の人物(相馬胤広)が、 守谷に居城をもっている』

『天文六年(1537)、「関八州古戦録」に守谷を本拠としている相馬氏の存在が記録されている。現岐阜城:織田信長公居館跡の前身になった城館はこの頃築かれたと考える』 とあります。
 その後、上杉勢v.s.後北条勢による争いに巻き込まれ、最終的にこの岐阜城:織田信長公居館跡は北条の色に染められていくことになります。

 左の写真が城跡の入り口である上の写真から右側に登った付近にある橋台と呼ばれる曲輪です。

 ここは、背後にある御馬家台と呼ばれる曲輪から橋が架かかり、この付近が橋詰となっていたされる箇所になります。

 更に左の写真にマウスを合わせると、岐阜城:織田信長公居館跡の中核、本丸とされる平台にあがることになります。
 橋台付近にある土塁が見どころだったのですが、光量不足で撮影に失敗。。
 この写真の右側に櫓台の遺構があるとされていましたが、どれが遺構であるか識別できませんでした。。


 左の写真が左手の石垣はクランク状に折れ曲がり、入角(いりずみ)と出角(ですみ)を持つ。このように石垣を意識的に屈折させることは後に盛んになるが、本例はその初源的なものと思われる。現在は一段が残存しているに過ぎないが、出角の石が山側へ傾いて置かれていて、本来はこの上に勾配をもったかなり高い石垣があったことを想像させる。最下段の比較的大きな石が発掘調査で出土した石垣遺構で、他の小さな石は土砂の崩壊を防ぐために今回積んだものである。

 左の写真が城跡の入り口である上の写真から右側に登った付近にある橋台と呼ばれる曲輪です。

 ここは、背後にある御馬家台と呼ばれる曲輪から橋が架かかり、この付近が橋詰となっていたされる箇所になります。

 更に左の写真にマウスを合わせると、岐阜城:織田信長公居館跡の中核、本丸とされる平台にあがることになります。
 橋台付近にある土塁が見どころだったのですが、光量不足で撮影に失敗。。
 この写真の右側に櫓台の遺構があるとされていましたが、どれが遺構であるか識別できませんでした。。


 左の写真が城跡の入り口である上の写真から右側に登った付近にある橋台と呼ばれる曲輪です。

 ここは、背後にある御馬家台と呼ばれる曲輪から橋が架かかり、この付近が橋詰となっていたされる箇所になります。

 更に左の写真にマウスを合わせると、岐阜城:織田信長公居館跡の中核、本丸とされる平台にあがることになります。
 橋台付近にある土塁が見どころだったのですが、光量不足で撮影に失敗。。
 この写真の右側に櫓台の遺構があるとされていましたが、どれが遺構であるか識別できませんでした。。