下野 西明寺城 西明寺城 2010年4月18日 名 称 西明寺城 別 名 高館城 種 類 山 城(益子町指定史跡) 住 所 栃木県芳賀郡益子町高舘山 益子焼きで有名な益子町にある西明寺城です。 上の写真が主郭下にある駐車場から見る井戸跡とそれを取り囲むように続く主郭部分です。 やはり益子町といえば益子焼。 家族で益子焼へ行くというふれこみで、ここまでこれました。 城郭など全く興味の無い妻は益子焼のお買い物。 自分と娘は高館山へのハイキングとなりました。 標高302㍍と、そう高くない場所にある山城ですが、主郭部分から続く北側の曲輪から見る鬼怒川方面の景色は抜群です。 西明寺城の城主、益子氏の歴史は古く、紀党の末裔として宇都宮氏に属して鎌倉時代の奥州征伐では2万の兵を従軍し武功を重ね、清党の芳賀氏とともに宇都宮氏属下の紀清両党として活躍します。 代々主家・宇都宮氏を仰ぎながら、益子の地を統治してきましたが、戦国時代後半以降、益子氏は独自色を強め益子一族の内紛に端を発して主家と反目してしまいます。 その後、外的な要因である上杉氏や北条氏の台頭や武田家の進出など、関東地方での混乱の渦中に嵌っていきます。 諸説あるようですが、戦国後期の益子氏の系図は益子勝清→(謀反)→勝宗(庶子)→安宗(幽閉)→家宗[天正七年(1579)]。 宇都宮一門である隣国の笠間氏と度々の戦闘により、主君宇都宮氏から不快を買い、天正十七年(1589)に主君宇都宮国綱・芳賀高武らに西明寺城に攻め込まれ、討たれてしまいます。 左の写真が主郭の北側に面する現在はキャンプ場となっている曲輪です。 この日は天気がよく、少し霞がかかっていましたが、遠く日光連山が見えました。 左の写真は主郭にあたる場所です。 写真の奥のほうに見える隆起している小さな櫓台みたいなものが見えます。 一番上の写真から主郭まで数段の郭が連立し、郭ごとに土塁や虎口に守られ、登城した感想としては重厚な山城のように感じられました。 この西明寺城の別名は「高館城」とも呼称します。 この山城は詰めの館[高いところにある館(安易過ぎ?)]として機能したのでしょう(作者の勝手な憶測)。 現在でも左の写真の櫓台らしき箇所が頂きとした西明寺城全体の城域を高館山と呼ぶところから、ここに山城があったことが名前として残っています。 左の写真は西明寺城の麓にある西明寺、国指定重要文化財の楼門と三重塔です。 この三重塔は天文七年(1538)に益子家宗が建立したそうなのですが、この年代に生まれてたのかなぁ? 文献と時代が合わないけど。。。 この他にも重文として本堂の厨子があります。 ここ下野の地名には戦国時代に活躍した武人の地名がたくさんあること。。 宇都宮、芳賀町、益子町、七井、茂木などなど。 併合などで昨今地名が消滅してしまうことが多々ありますが、これらの由緒ある地名は残ってほしいと思います。
下野 西明寺城
西明寺城 2010年4月18日
名 称
西明寺城