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遠江 横須賀城



 遠江(とおとうみ)・横須賀城です。
 上の写真は本丸南下門跡からみた天守丸方面の写真となります。
【歴史】
 この横須賀城は天正四年(1576)に高天神城への橋頭保として家康の家臣・大須賀康高によって築城されました。
 高天神城落城後も存続し徳川家が江戸転封後、一時期豊臣家の恩顧の大名に入れ替わりますが、関ヶ原の戦い後に再び大須賀家が領し、その後も徳川家譜代の家臣によって明治維新まで存続します。
 


【特徴】
 横須賀城の特徴は、やはり天竜川の川石でできた玉石垣ではないでしょうか。
 平成の時代に入ってからこの玉石垣を復元されたようですが、当時もこのような見事な石垣にするには大変な技術・労力があったと思わさせられます。
 帰城際、横須賀城・駐車場付近にあった「たたき製防火水槽」、さらに二百年余り藩主を務めた西尾氏の家紋に目が留まりました。
 見た瞬間、江戸時代にコンクリートのような防火水槽って作成できる技術があったのかかなぁ。と、目を疑いました。
 「たたき」とは「三和土」と書き、花崗岩や安山岩などが風化した土で、土間の床などにに使われるものだそうです。 これを防火水槽に応用したみたいですね。

横須賀城・見どころ




【考 察】<横須賀湊に関して>
 横須賀城から現在の海岸線は2㌔以上南になります。 これだけの玉石垣の石材を天竜川から運搬するのはやはり船を使用したと思いますが、江戸時代初期までは横須賀城付近に入り江が存在していたそうです。
 現地(平成十一年三月大須賀町教育委員会)の案内にも説明がありましたが、宝永四年(1707)に発生した宝永大地震によって地盤隆起が発生、入り江が干上がってしまい使用できなくなってしまったとの記載がありました。
 実際この文章を読んだとき自然の摂理を思い知らされました。 が、この隆起が実際に発生したのであればもっと一般に見聞されている筈と思い、詳細を調べてみて答えに近づけました。
 「内閣府、災害教訓の継承に関する専門調査会報告書(平成26年3月)、1707宝永地震」に以下の記載がありました。
 1.遠州灘沿いから御前崎にかけて宝永地震の際に隆起したことを示す史料が一切ない。
 2.戦国時代に遠州灘付近の中継基地として栄えた横須賀湊は江戸時代になると衰退していく。
 3.天竜川など付近の河川からの土砂の堆積によって横須賀湊が浅くなる。
 4.何度も浚渫(しゅんせつ、港湾などの土砂を取り去る工事)をしたが次第に横須賀湊西側に位置する福田湊への来航が増えた。
 以上の内容によって、地震で横須賀湊が干上がった可能性が低いことが云えるのではないでしょうか。
 さらに「宝永地震城郭被害データベース(第5章第1節の2関係参考)」では、 数多くの城郭・城下での被害状況が報告され、中には「天守上より2重目破損」との報告もあり、宝永地震までは天守が存在したことも伺えます。
 ここからは作者の想像ですが、宝永地震に際し横須賀城下復旧により財政が困窮、横須賀湊の維持が難しくなりが衰退したのではないでしょうか。