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伊豆 山中城

山中城:本丸の畝掘 2010年11月29日

名 称

 山中城

種 類  山城(国指定史跡)
住 所  静岡県三島市山中新田

 上の写真が山中城:本丸と二の丸を断ち切る畝掘です。

 関東・北条氏の名城、八王子城に続いて念願の山中城への登城が叶いました。
 山中城と云えば障子掘と畝掘、が、しかし。
 この日はあいにく西櫓への登城路が、工事中のために閉鎖されていました。。。
 障子掘への見学は、西の丸の物見台からの見学だけでしたが、それでも満足のいく登城となりました。

【山中城の歴史と立地条件】
 三島市教育委員会の説明によると、『小田原に本城のあった北条氏が、永禄年間(1558~1570に築城したと伝えられている中世最末期の山城である。』と説明しています。
 この山中城最大の攻防は小田原の役(天正十八年(1590))、豊臣秀次軍による北条征伐の最先鋒となった戦いです。
 多勢に無勢、たった半日の攻防で山中城は堕ちてしまいますが、その表舞台とは裏腹に、この山中城の遺構は非常に興味をそそられる内容になっています。

 旧東海道を、両翼の形で覆いかぶさるように、山中城と岱崎出丸が存在します。
 そして中山城最大の遺構、右翼の先端にあたる西櫓周辺に畝堀・障子堀(一番下の写真)が広がっています。

 このページの一番上左下は山中城の本丸と二の丸を分断する堀を写しています。

 この付近の説明に。
 「・・・堀の二の丸側には、幅三十~六十センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。・・・」
 作者は登城の際、この一文を読んで理解に苦しみ、「何処に犬走りが在るんじゃい!。。。土橋が分断?」
 自宅に戻り撮ってきた写真を見て、やっと理解しました。。。
 
理解した内容が左下の写真にマウスを合わせると、判ります?。


 赤色部分が犬走り、青色部分が土橋になります。
 これで上記の説明である「・・・土橋もこの犬走りによって・・・」の意味がわかります。

 左の写真は左上の写真にある櫓台から見た畝掘の様子です。 しかし、この犬走り、城を守る際にどのような役割を果たすために構築されたのでしょうかぁ? また、実戦で役に立ったのでしょうかぁ?
 説明には掘底に、兜の裾に付く『しころ』という防具が出土したと云う事です。
 そうすると攻城側の兵士がこの堀で息絶えたときのものでしょうかぁ? 登城した者にとっては、そうありたいのですがぁ。
 もし、攻城側兵士が息絶えたと仮定すると、この遺構は意味のあったものであると言えるでしょう。。。

 この堀を越えたら本丸になり、守城側は後がありません。
 もし、敵が七万人もの大軍ではなく千人ぐらいの小部隊であれば、この遺構は活きてくるのではないのでしょうか?

 攻城側は、この堀に進入すると犬走りの壇上に立ってしまいます。
 そうすると守城側からは、弓矢や鉄砲などで狙い撃ちにされてしまいます。 それが免れ畝堀頂上部分を渡り本丸を超えようとするならば、そこも守城側から狙い撃ちされます。
 この畝掘(または箱掘)には、そのような効能があったのではないでしょうかぁ。。。
 

 下の写真が山中城最大の見所、西櫓付近にある障子掘です。
 冒頭のとおり、この日は工事中のため、西の丸への登城は出来ませんでした。

 岱崎出丸も含めて、この中山城。 大変整備が行き届いています。
春・夏になると、芝生に囲まれた中山城は映えわたった緑に包まれます。
 また、そんな時期に来れるかなぁ。。。




岱崎出丸へと続く・・・