<天空の城砦-HomePage>

遠江 諏訪原城



 遠江(とおとうみ)・諏訪原城です。
 上の写真は城郭最南端にある外堀の様子です。
 喫茶店裏手の路地から登城するとすぐ「二の曲輪大手馬出」が訪問者たちを迎えてくれ、その規模の大きさに圧倒されます。
 登城順路と逆側の南側へ向かいます。そこには「二の曲輪南馬出」などの曲輪群が連なっており、更に当日は実施しいませんでしたが「二の曲輪東馬出」の発掘調査中でした。



 ブルーシート右側にある掘削箇所は深さ3~4㍍位掘られており、築城当時の「東馬出」にあった外堀跡を発掘しているように感じました(素人目線)。
 このお城は遠江東端の牧之原台地にあり、旧東海道が城の南端を沿っています。
 当日は金谷駅から旧東海道の石畳を登り諏訪原城に向かいました。石畳…。登山靴でしたが巨体?のせいか登りづらかったです。
 石畳を登りきったところに「明治天皇御駐輦阯」の碑が建ち「ここで車(お輿?)を止められ富士山を望まれたのだなぁ」と感じられます。
 現在は碑からは木々に遮れら少し離れた場所からでしか富士山は見えませんがぁ。
 しばらく歩くと現代の駐車場を通り過ぎて喫茶店裏の路地から諏訪原城へ登城出来ます。
 金谷駅からここまで約30分掛からなかったと思います。

【諏訪原城の歴史】 天正元年(1573)、武田勝頼が家臣の馬場信春や武田信豊に命じ、この牧之原台地に城を築かせたと《甲陽軍鑑》の記述にあります。
 この諏訪原城を兵站基地として遠江の堅城・徳川方の高天神城を勝頼は狙います。 その翌年天正二年(1574)高天神城を手中に収めますが、翌年天正三年(1575)長篠の戦において大敗。
 同年七月ごろ、家康の反抗により諏訪原城も窮地に陥り、一か月余りの攻防の末に落城します。
 しかし、この城より徳川方に近い高天神城は、翌年天正九年(1581)まで存続します。
 更に大井川の下流にある小山城に至っては、天正十年(1582)の勝頼が天目山で散った年まで守り抜くこととなります。
 高天神城への兵站基地として築城した諏訪原城でしたが、天正三年以降は徳川方の城郭として整備され、武田方が大井川付近を経由して高天神城への兵糧・増援投入するものなら、それを奇襲する前線基地となったと考えられます。



 上の写真が二の丸北馬出から見た大井川越しの富士山になります。
 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠われ、江戸時代には幕府の防衛戦略上架橋は許されませんでした。
 まったくの作者の妄想ですが「江戸時代、ここから大井川を望み対岸の島田宿と狼煙等でやり取りして、城下の金谷宿に渡河の有無を連絡していたのではぁ?」と、想像できるぐらい大井川の状況が具(つぶさ)に判ります。



 最後になりますが上の写真が二の丸北馬出の空堀となります。
 島田市が行っている史跡整備の一環として補強工事が行われております。当時の状態を再現させるためとは思いますが、周りの木々は伐採され太い切り株が至る所に見受けられました。
 補強工事が実施されることは納得できますが、やりすぎの感は拭えません。この補強工事がトップの写真にある空堀に対しても実施されることがあれば残念でなりません。