遠江 浜松城
上の写真の天守台に映える復興天守は遠江(とおとうみ)・浜松城です。
登城前に地図上でみた印象では市街地内の公園の城郭なので「どうなのかなぁ?」と思いましたが、復興天守のある天守曲輪周辺の石垣に感銘を受けました。
浜松市役所のホームページ<市政情報-都市整備-公園-浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画について>にて浜松城の現状、そしてこれからの整備計画に関して詳細な情報が得られます。
(家康くん(?)、ありがとうございます)
上記史料内に「横矢」の説明があり、それぞれの積み方による詳細が記されておりました。
下の横矢の写真の中でも4番目にある埋門脇にある屛風折は大変見応えがあります。
浜松城天守曲輪の横矢
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浜松城天守曲輪の埋門北側に石垣が欠落している部分があります。
上の2枚目の写真・八幡台の石垣の向こう側にある木々の茂みと3枚目左側にある茂み部分がそれに当ります。
廃城後に自然と崩落したものかは判りませんが、浜松市の資料によると戦時中はこの茂みの中に防空壕があったと伝えられているそうです。
【歴史】
家康の侵攻以前、現在の浜松城の一郭に曳馬城と云う名前の城郭が今川方の城として存在していました。
永禄十一年(1568)12月、信玄公による駿河侵攻が始まると大井川を境に西が徳川方、東が武田方に今川領を分割する密約を結び、それぞれ侵攻していきます。
その侵攻の際、曳馬城には徳川方に異を唱える勢力がいましたが、鎮圧され落城していきます。
元亀元年(1570)、徳川家康は本拠地を岡崎からここ曳馬城へ移します。 その際、厳を担ぐため曳馬から浜松へ地名を変更したそうです。
そして入城から2年後、あの三方ヶ原の戦いが元亀三年(1572)12月に発生します。
この年から天正十年(1582)に武田家が斃れる10年間、この遠江一帯に戦乱が包みます。