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常陸 小田城

小田城

小田城 2009年9月11日

名 称

国指定史跡 小田城

種 類 平 城
住 所 茨城県つくば市小田

 上の写真が小田城の涼台です。
 このお城には本丸付近まで車で入れます。 小田幼稚園近くの本丸にある更地で車を停め、鐘楼台を左に見て、つくば市教育委員会が掲げる案内板を一読、 案内板に括り付けてあるパンフレットを戴き、一番の見所の涼台に近づきます。。。
 すると、大きなスズメバチ(大型の蜂)が猛然と襲ってきました。。。(「カチカチ」と威嚇するために発する音をハッキリ聞こえました)
 暫らくして怯むことなく涼台へと近づきましたが、今度は蜂のほうも2・3匹で。。。
 涼台の向こう側でを耕運機が草地(畑?)を伐採していました。どうやらこの騒動で蜂ちゃんが興奮していたようです。 その後は遠望して上の写真を撮るのがやっとでした。。。

 土浦城の帰り道に、この小田城へ寄ってきました。
 自分としては上記の騒動があり、涼台の壇上に登城して一望が出来なく、ちょっぴり(いや大分)残念でした。。。

 それと、この季節柄でしょうか?草木が生い茂って水掘なのか空堀なのか?土塁なのか?ただ草木が生い茂ってるだけなのか?区別が付かないのに困りました。

 さて、この小田城は正方形の主郭の周りに、二重、三重の水堀や土塁に囲まれた平城です。
 北側の丘陵には前山城を背負い、南側は湿原地帯。主郭と前山城との間には筑波街道が走っており、往時は交通の要衝だったことが伺え知れます。
  

 小田城は、12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり建久四年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。
 四代時知に至り小田氏を名乗るようになり、鎌倉幕府が亡びると 七代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。
 治久は延元3年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。
 しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城へ移った。
 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。佐竹氏は梶原正景を小田城代として守らせた。正景によって小田城は大規模に改修された。慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替されて廃城になった。
<つくば市教育委員会(昭和62年)>
(説明板の内容から抜粋)


 左上の写真が東側から見た鐘楼台の突端部分です。
 左上の写真にマウスを合わせると北側から見た鐘楼台になります。
 この鐘楼台は正方形の主郭の北東部分にあたり、一番上にある写真の涼台が南東部分。 そして左側の写真が南西部分の櫓台になります。
 残る主郭の北西部分ですが、主郭部分を「筑波鉄道筑波線」の廃線跡が斜めに敷設されており、そのため北西部分にあったであろう櫓台は消滅しています。
 左の写真の櫓台下にガードレールが見えますが、これは「筑波鉄道筑波線」廃線跡を利用した「つくばりんりんロード」(自転車道)です。
 小田城主郭部分の周りを囲むように敷設されていますがぁ。。。 作者としては何で?小田城の堀を潰してまでこのサイクリングロードを作ったのか?理解に苦しみます。  どうせ「筑波鉄道筑波線」の敷設で破壊されている廃線跡に盛土でも盛った上で作ればよいものを。わざわざ小田城の遺構を破壊してしまうとは。納得がいきません。