<天空の城砦-HomePage>

 

但馬 竹田城

但馬 竹田城 2000年4月23・24日

名 称

 国指定史跡 竹田城

種 類  近世山城
住 所  兵庫県朝来市和田山町竹田

 このホームページを作るきっかけともなった、但馬・竹田城です。
 初心にたちかえり、この竹田城のページをリニューアルいたしました。

 上の写真が竹田城の要、本丸と花屋敷(右下)です。
 少し( だいぶ(>_<) )逆光になっていて、石垣の様子をみることが難しいですが、山の稜線に沿って石垣が積まれていることが判ります。

 平成十二年四月、二日間を通して竹田城を見学しましたが、一つだけ悔いが残っていることがあります。 それがこの花屋敷です。 この曲輪は水の手にも近く、重要な施設だったためか、城郭の中で唯一鉄砲狭間が存在します。 それを見逃しました…。。。(これまでも多くの城郭で必ず何か見逃してますが…)

 本丸(一番上)の上にいる方と比べると、花屋敷から本丸までの高低差が一目瞭然です。

 下の写真は南千畳と、播磨方面の山容です。
 この付近の風物詩の雲海。 その雲海に浮かぶ竹田城。。。
 「竹田城の雲海」。 一度この目で観てみたいのが私のささやかな夢です…。

 その想いがこのHPのタイトルともなっています。



作者にとってこの竹田城の良さは、何と云ってもこの穴太積みによる石垣の美しさでしょう。。。
上の写真が南千畳方面から写した天守台です。 少し態と石垣の濃密さを強調したアングルですが、この竹田城の良さが判っていただける写真だと思います。

 竹田城をこのような重厚な総石垣の城砦に創りあげたのは、赤松広秀と云う城主と云うことです。
在籍期間は十数年。 このような城郭にどのような建築物が存在したのか、とっても興味が湧きます。


 天下統一後の秀吉は、大名の配置がえを行い、龍野城主である赤松政秀の嫡男、広秀が竹田城主になります。 15・16世紀にまたがり播磨で山名氏と争っていた赤松家が敵の真っ只中でもあった竹田城主になります。 在籍期間は十数年の間、四国征伐、九州の島津家、小田原の北条家、そして朝鮮(文禄の役)など、広秀は出兵しています。
 朝鮮出兵への戦歴があってでしょうか? 井戸曲輪には「登り石垣」の遺構が見受けられます。

 そして天下分目の合戦、関が原の戦いには西軍として参陣します。 ご存知のとおり西軍は関ケ原で破れてしまいます。 その後、徳川方として鳥取城を攻め戦功を挙げますが、鳥取城下に火を放ったとの責めを受け、切腹してしまいます。

 上の写真は天守台したにあたる平殿という個所です。 このような遺構も虎口と云うのでしょうか?
とても不思議な遺構です。 この石垣の上にどのような建造物があったのでしょうか? とっても気になります。

 この竹田への登城で、初めてデジカメを使用しました。 まだ初めてということもあって勝手が判らずあまりよい写真が撮れなかったと思うのですが、作者にとってこの「城」に魅せられたと云っても過言ではありません。

 是非、もう一度この竹田城へ行き『雲海の竹田城』を観てみたいです。。。