摂津 尼崎城址

尼崎城址 2001年5月3日

名称

尼崎城址

城の種類

水城


 阪神尼崎駅のすぐそばにある復興土壁と復興石垣です。 遺構としてはほとんど残っていないのが現状です。 この復興石垣の裏側に尼崎市立城内小・中学校がありその近辺が尼崎城の本丸があった場所と言われています。
 尼崎城は元和三年(1617)三月に戸田氏鉄が尼崎に移り、河辺・武庫・莵原・八部、四郡を含む五万石を領し、大阪城の隣国でもあり、西国大名へ牽制するため幕府は新城の構築を氏鉄に命じ、元和四年(1618)から数年を費やし尼崎城が完成しました。 歴代城主は戸田氏・青山氏・松平(櫻井)氏と続き明治維新を迎えています。

 復興石垣のすぐ近くにある櫻井神社です。 御祭神は尼崎城の最後の城主の家でもある松平(櫻井)家初代松平(櫻井)信定公より十六代忠興公までの歴代城主が祭られています。
 尼崎城最後の城主、忠興公は幕末時に城内では尊王・佐幕両派に分かれて対立していましたが、最終的には倒幕方に列することなり明治維新後は明治新政府に尽力されたそうです。 明治維新の際は松平姓を廃し、祖先の地、櫻井の姓を名乗り櫻井忠興公となりました。 やはり、家康の時代から譜代大名であったために松平姓を変えざるを得なかったのでしょうか。

 櫻井忠興公の話はこれではおさまらず明治時代となり西南戦争が起こった際、忠興公は私財をもって医師らを派遣し敵味方の区別なく負傷者の手当てを行いました。 これが日本赤十字社の前身、『博愛社』のはじまりです。
 このことが世界赤十字社に認められ、明治20年5月20日に日本赤十字社が東京都千代田区内にあった元尼崎藩主櫻井忠興邸から誕生しました。 日本の赤十字社が一大名出身者によって設立されたとは驚きです。(忠興公だけではなく他の多くの方の尽力があってのことだと思います)
 これを称える石碑(尼崎城の石垣を使った)が櫻井神社内にあります。
 この他にも尼崎の最初の小学校・幼稚園の開設など地元にも多大なる貢献を惜しまなかったようです。
 櫻井忠興公・尼崎城、最後の名君といっても過言ではないと思います。
 左は城内小学校の南側の塀にある尼崎城趾の石碑です。 小学校の校庭に尼崎城の縮小模型がありました。 この小学校は近年の阪神大震災の際に壊滅的な被害を受け、復興の際に縮小模型も再建されたそうです。 現在では小学校の校舎も立派なものが建てられていました。

 大物公園内にあった石垣です。尼崎城大手門付近から出土し、本丸の堀に使用されたと思われております。串団子の刻印があるのですがお判りになりますか? あと一個団子が刺さってたら、面白かったと思うんですが…

 尼崎城の遺構がほとんど残っていないのは最後の藩主である櫻井忠興公によるものが大きいと勝手に作者は思っているのですがみなさまがたはどうおもいますか? 赤十字社への経緯、小学校などの創設などへ私財を投じられ、少しづつ城跡がなくなっていったように思えます。