【若松城の歴史】
若松城の興りは古く、南北朝時代までさかのぼります。
その時代に蘆名直盛と云う人物が現在の城郭に館を築いたのがはじまりだとされ、その後、黒川城として戦国時代中期まで蘆名一族が覇権を握り続けます。
戦国時代後期に入ると、伊達政宗×蘆名氏の争いが激しくなり、天正十七年(1589)にとうとう政宗は黒川城を手にします。しかし翌年、正宗は秀吉に臣従して会津をあとにします。
その後、黒川城には蒲生氏郷が入城します。文禄元年(1592)~慶長三年(1598)まで、氏郷・秀行と続き、黒川城を鶴ヶ城と改め、望楼型の天守が建てられました。
慶長三年(1598)に蒲生家でお家騒動が起こってしまい、宇都宮へ減封してしまいます。その入れ替わりに、越後の上杉景勝が会津・米沢・庄内を含む百二十万石の大藩として入封して関が原の戦いに突入。 結果、米沢藩三十万石へ減封します。
慶長六年(1601)には、再び蒲生秀行が入城、寛永四年(1627)に嫡男の忠郷に嗣子がなく伊予・松山城に移封。 入れ替わり松山城より加藤嘉明が入封。嫡男の明成の時代に、西出丸、北出丸などの造築を行い、このとき慶長十六年(1611)に起きた会津地震で倒壊した天守を現在みられる層塔型の天守に修築しています。 この頃、現在の会津若松城が形成されています。
寛永二十年(1643)、加藤氏は改易され、出羽・山形城より三大将軍家光の庶弟である保科正之が入封。維新まで会津松平氏の居城となり、戊辰戦争へ続くこととなります。
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